2009年4月28日火曜日

「9フィートのアンダーグラウンド(恋人は友人)」キャラバン

原題:Ninefeet Underground: Love's a Friend

In The Land Of Grey And Pink

(グレイとピンクの地)収録





地下9フィート(9フィートのアンダーグラウンド)[恋人は友人]

夜が明けようとしている今日の日を見てごらん:君に目には何が見える?
あくびをしながらでも今僕のことを考えておくれ、陽の光はぼくが泣いた涙
ぼくが見ているものは本当の事だとわかっている
ぼくがさわっているものが僕が感じているものだとわかっている
もし僕が君が言うことを気にしないとすれば
今日は僕にとって何の意味も持たないだろう

なぜって、息づいている君の世界が見えるし、僕の心は君のもの、君のは僕のものだから
許すとか許さないとかいうような話はしないで、やることはたくさんあって、時間はないんだ
僕の愛はまっすぐに君に向けられている
何か新しいものへの思いも込めて
僕が手にしているもの全てを君は感じている
両手を口にいれて、君は静かにひざまずく


ぼくが見ているものは本当の事だとわかっている
ぼくがさわっているものが僕が感じているものだとわかっている
僕の愛はまっすぐに君に向けられている
僕の愛する人は君...
  


Ninefeet UndergroundLove's A Friend


Look at the day that is dawning: what do you see with your eyes?
Think of me now while you're yawning, sunshine the tears from my cries
What I see I know is real
What I touch I know I feel
If I don't care for what you say
It won't mean much to me today

For I see your world that is living, my mind is yours, yours is mine

Don't talk to me 'bout forgiving, so much to do, no more time
All my love goes straight to you
With just a thought for something new
All I have is what you feel
With hands in mouth, you gently kneel

What I see I know is real
What I touch I know I feel
All my love goes straight to you
All my love is you...

 

【解説】
「In the Land of Grey and Pink(グレイとピンクの地)」はCaravanが1971年に発表した第3作目のアルバム。リチャード・シンクレア(Richard Sinclair)の甘く安定したボーカルと、デイヴ・シンクレア(Dave Sinclare)のキーボード、特にトーンを変えたオルガンがアルバム全体の大きな魅力となっている傑作である。

「Nine Feet Underground」は、旧LPでB面すべてを使った22分を越える大曲で、9パートからなる組曲である。とは言っても劇的な展開をするわけではなく、滑らかになだらかにリズムチェンジを繰り返しながら、オルガンがリードを取りつつ進んでいく心地よさに酔う曲だ。


その中でボーカルパートは「Love's A Friend」と「Disassociation」の2つのパートのみ。そして「Love's Friend」が、ギター担当のパイ・ヘイスティングス(Pye Hastings)、「Disassociation」がリードボーカリストと言っても良い、ベース担当のリチャード・シンクレアが歌う。


今回は「Love's A Friend」を取り上げてみた。次回は「Disassociation」と続く予定だ。


まずタイトル「Love' s A Friend」だが、「Love's」は「Love is」の短縮型。したがって「Love is a Friend.」という文である。恋人をさす場合、一般的には「love」は女性、「lover」は男性を指すことが多い。それに従えば、男性が女性に対して「愛する人」と呼びかけている歌だと考えられる。


タイトルはどういうふうに解釈すればよいだろうか。「自分の恋している人(自分にとっては恋人)は実はまだ友人の一人」という感じか。


実際に歌詞を見てみると、「僕」からの一方的な語りかけである事がわかる。むしろ相手に話をさせるチャンスを与えず、自分の愛を語り、相手の自分への愛を求めている感じだ。パイ・ヘイスティングスのちょっと不安定な弱々しい感じの声だから、キツさを感じないが内容的には結構自分勝手である。


とくに「With hands in mouth, you gently kneel(両手を口に入れて、君は静かにひざまずく)」は、強烈なイメージだ。前の行「All I have is what you feel」とつながっていると解釈すれば、「僕が手にしているもの全ては、君が両手を口に入れて感じていることさ。君は静かにひさまずく」となる。


「hands in mouth」は赤ちゃんがよくするポーズだ。両手を口にしてしゃぶるような感じ。hungry cue(お腹がすいた合図)とも言われる。「僕」の前で、赤ん坊のように「僕」の愛を求めてかしずいていると言っているのだろうか。


強烈な愛の歌であることは確かだ。しかし相手の気持ちが見えない。再びタイトルと考え合わせると「Love is a friend.」ちょっと不気味な感じさえする。まだ友人である女性に向って、愛を告白しているというより、愛を押し付けているような有無を言わせない感覚が漂っている。


さて長いインストゥルメンタルパートを経た次のボーカルパート、「Disassociation」ではどのような詞が展開されているであろうか。


2009年4月25日土曜日

「レディー・ファンタジー」キャメル


原題:Lady Fantasy

■「Mirage(ミラージュ)」収録








[レディー・ファンタジー<出会い>]

注意深く聞いておくれ
の言葉でこれから説明するから
確かに目にしたのだけれど
決して引き止める事の出来なかった女性のことを
君は笑っているね
きっと時間がかかるだろう
君に伝わる言葉
もちろん、彼女は君のことを僕に思いださせるんだよ

僕のことを誤解しないでおくれ
いつでも簡単に言えるってわけじゃないんだ
君の頭の中や心の中にだって言葉が詰まっているだろ
君だってうまく説明できないはずさ
そう、僕ははっきりと見える
空に浮かぶ君の顔
その両目に映る月
君は僕を無視している
あぁ、その理由を教えておくれ

[レディー・ファンタジー<幻想の女神>]

あなたが青い雲の上に乗っているのを見た
あながが渦巻きの上を歩いているのを見た
目の角でこっそりと
はあなたを見たのだ

日の光の上に座っているのを見た
白昼夢のさなかのこと
あぁ、の幻想の女神よ
あなたを愛している


[Lady Fantasy - Encounter]

Well, listen very carefully,

My words are about to unfold,

Concerning a lady I've seen
But I never could hold.
I can see by your smile,
It'll take a long while,
The words that come through,

I see that they're true,
Of course, she reminds me of you.

Don't misunderstand me
It's not always easy to say,
There are words in your head and your heart
That you just can't explain.
Well, I can see clearly,
Your face in the sky,
The moons in your eye,
You're passing me by,
Oh, tell me the reason why.

[Lady Fantasy - Lady Fantasy]

Saw you riding on a blue cloud,
Saw you walking on a whirlpool,
From the corner of my eye, I saw you.

Saw you sitting on a sunbeam,
In the middle of my daydream,

Oh, my Lady Fantasy,
I love you.
(英詞は1991年発売日本語版CD添付ライナーより)

【解説】
英国叙情派プログレッシヴ・ロックグループの雄Camelのセカンド・アルバム「ミラージュ(蜃気楼)」より、アルバムラストを飾る大作「レディー・ファンタジー」である。Camelの代表曲と言っても良い、ライブでも定番となる13分近いファンタジックな組曲だ。

美しいメロディーとギター、キーボード、フルートのアンサンブル、ささやくようなやわらかなボーカル、そして頻繁なリズムチェンジ、ロック色の強いインストパートやハードなギターソロなども交えながら、全体としてはとてもファンタジックな曲になっているところがCamelらしい。
まずタイトルであるが、普通「Lady 〜」とあれば、「〜夫人・〜令嬢」と解することがあるが、「Lady Fantasy」となるとそうした使い方とは異なるだろう。「Lady Luck」で「幸運、幸運の女神」、あるいは「Lady 」で「女王《古語・詩》という意味を持つことから、「Lady Fantasy」は「幻想の女神」あるいは「幻想の女王」という感じか。

ところが、である。このタイトルにダマされた。こうして訳してみるまでわたしは何となくこの曲は、それこそ「幻想の女神」に出会った男が取り憑かれたように恋に落ちたという、単純な話だと思っていたのだ。だから大曲でありながら、今ひとつ「Lady Fantasy」という曲に重みが感じられなかった。現実離れした夢物語の曲。勝手にそう思い込んでいたのだ。

しかし、歌詞をよく見ると、とんでもない。これは現実の女性への愛の歌、あるいは告白の歌ではないか。

まず「注意深く聞いておくれ」と「わたし」は言う。ということはこの話は独り言でも、心の中の言葉でもない。ちゃんと聞かせようとしている話なのだ。誰に?「君(you)」にだ。「確かに目にしたのだけれど、引き止める(自分のものにする)ことはできなかった女性」について、「わたし」は「君」に、言葉で一生懸命説明しようとしているのだ。

「君」は笑う。それはバカにした笑いかもしれない。あるいは困った笑いかもしれない。だからちゃんと言葉の真意があなたに伝わるには時間がかかるだろう、でも「わたし」の言葉は真実なんだ、と念を押した上で、第1連最終行、「もちろん、彼女は君のことを僕
に思い出させる」とくる。つまり「僕」は「君」への思いを非常に遠回しに言っているのだ。

第2連、「僕」はうまく説明できない、というよりうまく気持ちを言葉で伝えられる自信がないのだろう。すでにこの連での話題は「僕の見た女性(a lady I've seen)」というような漠然とした人のことではなくなっていることにお気づきであろうか。そう、「僕」がはっきり目にすることができるのは、空に浮かぶ「君」、「君」の瞳に映る月、「君」のことばかりだということ。

そして、それなのに「君」は「僕」に対して冷たいそぶりなのはなぜなんだい?と問う。すでに告白してしまっているではないですか、「僕」の気持ちを。そして暗にその気持ちに応えて欲しいと言っているのだ。

このあと長めのインストゥルメンタルパートが入り、曲調が変わる。そして
第3連、第4連のパートへ入って行く。

「僕」は実際に「君」への思い余って白昼夢を見たのかもしれない。
Lady Fantasy」にたいして「あなた」と言っている。しかし白昼夢の「あなた」は現実の「君」なのだ。「目の角でこっそりと見た」というあたりは、現実と混ざっているようにも思える

そしてここでは「
Lady Fantasy」に「あなた」のことを見たという過去形の文が続く。(主語の「I」は省略されている)。幻想的な映像である。しかし最後に言う。「僕はあなたを愛しています(I love you.)」。ここだけ現在形が使われている。これは今の「僕」の気持ちなのだ。

これこそ「僕」が言いたかった言葉。「Lady Fantasy」という白昼夢を見るほどに恋いこがれている「君」に、「Lady Fantasy」に伝えるかたちで「君」に伝えたかった言葉だ。

だからこの曲は夢物語でも幻想潭でもない。
ファンタジックな意匠を凝らして入るけれど、現実の男性から女性へのラブソング、告白の歌なのである。この感じだと、一目惚れに近いのかもしれないな。

しかしこの回りくどい告白で、「君」は「僕」の思いを感じ取ってくれたのであろうか。そこが気になるところではある。

2009年4月23日木曜日

「ヒプノティック」パートス

原題:「Hypnotique」

Timelossタイムロス」収録



わたしは一輪の花 香りを嗅いで
一つだけ確かなこと それはわたしの運命
わたしに栄養を与えて そうしたら幸せをあげる

あなたは水 わたしをびしょびしょにして
二人がいっしょにいれば そこに調和が生まれる
わたしといっしょにいて そうすれば希望と情欲に満たされる

ここにわたしは今立っている 裸のままで
あなたが答えを求めても 何も得ずただ苦しむだけ

「わたしを愛するか愛さないか遊び」という むなしいゲーム


ここにわたしは今立っている しおれて
あなたを独り占めして わたしの一部にできると思ったのに
欲深な わたしの中に吸い上げられたたあなたの偽りの涙が

「私を求めてに泣いたのよ」


I'm a flower - smell me
One thing is certain - that is my destiny
Nourish me - and I will bring you happiness

You are my water - drown me

When we're together, there is harmony

Be with me - and all there'll be is hope and lust


Here I'm standing - naked

Your search for answers will end in agony

"Loves me not or loves me do" - a game in vain
Here I'm standing - withered
Thought I could keep you, make you a part of me

Miserly absorbed your false tears

"Cried for me"


【解説】
スウェーデンのバンドPaatos(パートス)のファースト・アルバムから、2曲目の「Hypnotique」(= Hypnotic 催眠状態の)。ささやくようなボーカル、エコーのかかったピアノとフルート。静かに美しい曲である。

しかしこのトリップ感覚を含んだムーディーさは、まさに女性が愛する男性に暗示をかけて自分の世界へと引きずり込もうとするような妖しさを秘めた曲である。
女性は一方的に相手に愛を求めている。「わたしは花」だから「水を与えて」と。そうすれば見返りとして「しあわせ」をあげるし、そうして二人がハーモニーを奏でることで、希望と情欲に満ちた生活が得られるのよと。

「Nourish me」「Be with me」と命令文が続く。それこそ暗示や催眠(hypnotic)をかけるかのようだ。

ところどころに使われている言葉がエロティックなイメージを喚起する。1連目の1行目「香りを嗅いで(smell me)」、距離がかなり近づかないといけないのと、においを嗅ぐという野生的な行為がエロティックさを感じさせる。

2連目の1行目、「drown me」も「溺れさせて、びしょびしょにして」と、単に水をやるというよりはもっと生々しい表現だ。

3連目「ここにわたしは今 立っている」は、準備を整えて「あなた」を待ち受けているかのようだ。それも「はだかで(naked)。しかし「あなた」はどうしていいかわからずただ苦悩(in agony)するだけだろうと言う。ことが思い通りに進まないであろうことを予期している。結局それは“私を好きになるならない遊び”という、空しいゲームだと。

この3連で、一方的に言いよっていた「わたし」に中に影が射す。そこには愛はないかもしれないと。そして静かに流れるメロトロン、フルート、ギターが、曲を次第に盛り上げていく。

4連で、「わたし」の思いは叶わないことがはっきりする。わたしは3連と同じように
同じ「ここにわたしは今 立っている」。ただし「しおれて(withered)」立っているのだ。同じ文で始まることで、結局そのまま相手にされず放っておかれたかのような印象を醸し出す。

過去形で「あなたを独り占めにして わたしの一部にできると思っていた」が、現実はそうはならなかった。ただ「わたし」が吸い上げたのは「あなた」の滋養豊かな水ではなく「偽りの涙」。それはわたしを生かしはしなかった。でもその涙は「わたしを求めて泣いたのよ(Cried for me)」。「わたしのために涙を流した」ともとれるが「わたし(のからだ)を求めて泣いた」とも取れる。だから「miserly(欲の深い、しみったれた)」なのだろうう。

しかし「いつわりの涙」であっても「わたし」はその状況を怒りもせずただ哀しみながら受け入れているのかもしれない。思う通りにならなくても、しおれてしまっても、あなたが答えを出せなくても。あなたを愛しているから。

曲はこの後メロトロンの劇的な音を背景にフルート、ドラムが激しい演奏を行い終わる。「わたし」のやるせない思い、
かなわぬとわかっても全てを投げ出しても自分のものにしたい「あなた」への思いを叩き付けるかのようである。

単なる歌ものに終わらない、どこか狂気をはらんだような歌詞と、静かにささやくようなボーカルから最後に劇的に盛り上がるドラマティックな演奏。Paatosの魅力あふれる名曲である。

2009年4月20日月曜日

「闇の彼方へ」タイ・フォン

原題:「Out Of The Night」

「恐るべき静寂」(TAI PHONG)収録







先日の夜わたしは奇妙な夢を見た
わたしは雲の上に浮かんでいた
そこは楽園の中
友がいた
何年か前に失った人々の姿が

  目はしっかり見開いているのだが
見ることができなかった
私は雲の中で一人
私は一生懸命夢が消えないようにしたけれど
その時涙が流れ始めたのだった

   夜のとばりから
雷鳴と稲妻がやって来た
私は嵐に巻き込まれた
風の吹き荒れる音は
私の理性を完全に吹き飛ばした
夜明けが来ることを待っていた時に
あまたある行く手に沿って進み
わたしは自分の道をみつけ
かなり内部を歩こうと待ち続けた
何かの名前を呼んだが
そこへ至ることはできなかった
だからと言ってできるこは他には無く
私は大胆なほどに涙を流し
翼を広げると
ゆっくりとベッドへと戻っていったのだった
夜が終わり
昼も終わることができると思った時
わたしは夜明けの罪深さがわっかったのだ


I had a funny dream the other night
I was a-floating on a cloud
It was in paradaise

My friends were there

The ones I lost some years ago


Although my eyes were bright
I couldn't see

I was alone amidst the cloud
I tried so hard

To keep my broken dream

But then my tears began to flow


Out of the night
Came the thunder and the lightening

I was caught by the storm
The howling wind
Made me lose my head completely

As I wait for the dawn

Along the many paths
I found my way

Waiting to walk some inside

I called the names some things
But to be there
But there was nothing I could do
I cried some hardy tears
And spread my wings
And let my self crawl back to bed
When night is over

And day can cease
I found it guilty of the dawn

(All lyrics transcripted by Linda Hennick
LPインナースリーブ記載)

【解説】

Thai Phong衝撃にデビューアルバムより、最終曲「Out Of The Nihgt(闇の彼方へ)」である。嵐のようなSEで始まる11分半に及ぶアルバム最大の大曲。

ゆったりしたリズム、背後でなり続けるオルガンに乗って優しく歌われる様は、ピンク・フロイド的である。しかし甘いメロディーと女性的な柔らかい声のせいでフロイド的な神秘さよりも、詞の内容にマッチした甘美さが全面に出ている。

詞は自分が見た夢について書かれれている。最初の連で出てくる「I was a-floating on a cloud」の「a-floatnign」は、古語や方言でdoing形の前につくa-と解して、「I was floating on a cloud」と同義に訳した。したがって、先日の夜見た夢の中で、「わたし」は雲の上に浮かんでいたのだ。そこは楽園であり、すでに失った友たちがいることにも気づいた。

「paradise(楽園)」には「heaven(天国)」の意味もあるので、「The ones I lost」は「失った友だち」とも「死んでしまった友だち」とも取れる。

しかし「友がいた」と言っているだけで、「会った」とも「話した」とも書いてはいない。あくまで「楽園」の中で、見かけただけなのだ。

第2連ではすでに、その夢は薄れかけている。目を見開いてはっきりと見ようとするのだけれど、結局見えていた友の顔も見えなくなり、「わたし」は雲の上で一人になる。喜びはつかの間だったのだ。

その夢の世界が消え去らないようにと願っているが、結局それはかなわないとわかっているからか、涙がこぼれてきたのだ。それは夢が消えることの悲しみというより、失った人をかいま見ることによって、再び失った悲しさがこみ上げてきたのかもしれない。

第3連、ここで曲の最初のSEのように、闇のとばりより雷鳴と稲妻が轟く。嵐の中で物事を考えることは全く出来なくなり、私はもう夜が明けるのを待っているのみ。

サウンド的にも嵐が去ったような静けさが戻る第4連、やがて理性を取り戻した「わたし」は再び自分の道を見つける。
その楽園のような場所へと通じる道を。そしてその中を歩き回ろうと思っている。再び同じ夢の中へと入っていこうとするのだ。言わば半覚醒状態。

「I called the names some things」は「I called the names and some things」と解した。友の名前などなどを呼んだのだ。「But to be there」は「to be there」(その場所へ行くために)を否定していると考える。「結局そこへは行けなかったのだ」と、前行の「I called ...」の結果の不定詞の否定。

したがって「わたし」にできることはもうなくなってしまった。「hardy」は「大胆な、向こう見ずな、勇敢な、強い」という、プラスのイメージの言葉。しかしここでは打つ手の無くなった自分が涙を流す様子の凄まじさを描く一言か。

ついに夢の世界へ戻ることをあきらめた「わたし」は「翼を広げベッドへと静かに戻る」のである。この自分の意志で「翼を広げた」時点で、「わたし」は夢から覚醒しているのかもしれない。意識して「楽園」を後に、眠りの世界へと戻ろうとしている。

そして夜も終わり、昼間も終わりまた夜がやってくる。しかし夜の帳を開けるのは「dawn(夜明け)」である。雷鳴と雷光に理性を失っていた私が求めていた「夜明け」はまた、「不思議な夢」が現れるような夢の時間を終わらせる時なのだ。

この歌は理屈でどうこうと言うよりも、懐かしい友のいた不思議な「楽園」の夢の世界と、現実の雷鳴と落雷に動揺する「わたし」の、夢と現実が交錯する幻想的な感覚を表しているようだ。「楽園」に行けなくなったことを嵐のせいにしているわけでもない。偶然が織りなした不思議な夜の体験。嵐の動と夢の静の対比。

曲は最後に雨音で終わる。まだ嵐は終わってはいないかのように。そして実は夢の世界はまだ終わっていないかのように。

2009年4月17日金曜日

「タイム」ピンク・フロイド

原題:「Time」
  


 




カチカチと刻まれる一瞬一瞬が 退屈な一日を作り上げるけれど
お前は何の準備もせずに時間をつぶしムダにする
地元の狭い土地をうろつきながら
誰かか何かが 行くべき道を示してくれるのを待ちながら

太陽の下で横になっていたり 家にこもって雨を見ているのにも疲れ
お前は若く人生は長く、そして今日もまた退屈な一日
そしてある日10年もの歳月がお前を通り越していったことに気づく
誰も いつ走ればいいなんて教えてくれなかったし、スタートのピストルの合図も聞き逃したのだ
 


お前は太陽に追いつこうと走って走って走りまくった、しかし太陽は沈んで行くところだった
そしてまた一周して再びお前の後ろに顔を出すのだ
太陽は相対的に何も変わらず、ただお前だけが年老いていく
息切れは激しくなり、ある日今よりも死がより身近になっているのだ

一年の長さはどんどん短くなり、その時を見つけることは不可能に思えてくる
計画は失敗に終わるか、ページ半分ほどのなぐり書きに終わる
静かな絶望の中で待ち続けているというのが、イギリス方式というわけか
その時は行ってしまった、歌も終わりだ、言いたいことはもっとあるのだが


Ticking away the moments that make up a dull day
You fritter and waste the hours in an off hand way
Kicking around on a piece of ground in your home town
Waiting for someone or something to show you the way

Tired of lying in the sunshine staying home to watch the rain
You are young and life is long and there is time to kill today
And then one day you find ten years have got behind you
No one told you when to run, you missed the starting gun

And you run and you run to catch up with the sun, but it's sinking
And racing around to come up behind you again
The sun is the same in the relative way, but you're older
And shorter of breath and one day closer to death

Every year is getting shorter, never seem to find the time
Plans that either come to naught or half a page of scribbled lines
Hanging on in quiet desperation is the English way
The time is gone the song is over, though I'd something more to say
 


【メモ】
時報を知らせる時計の音の乱打に始まるこの曲は、「狂気」全体で見ても非常にロック的な力強い曲である。パーカッション、エレピ、ギターによる空間を感じさせるイントロから、デイヴ・ギルモアのパワフルなボーカルが始まる。ソウルフルなバックのハーモニーも美しい。

第1連、第2連の歌詞だけ見ると、最初、だらしの無いその日暮らしのような生活を送っている怠惰な「お前」を歌っているようにも思える。しかし第2連の最後で、走り出すタイミングを待っていたことがわかる。「誰もいつ走ればいいか教えてくれなかった」というのは、単純に見れば、何を他力本願なことを言っているのだ、ということになるだろうけれど、そもそも自分で自分の人生を、つまり走り出す時を決めなきゃいけないということ自体「お前」は知らなかったのだろう。だからそこに誰かへの恨みは見て取れない。

 
しかし、その激しいボーカルとギターソロは、何ともやるせない怒りのような感情が見て取れる。それはどこにぶつけていいかわからない怒りである。

そして遅ればせながら「お前」は太陽を追いかけて走った。必死になって走った。しかし追いつくことはできなかった。むしろ周回遅れで追いつかれてしまうくらいだ。そうして何もできないまま年老いて死に近づいていくのだ。「the time」と最終連で2回出てくるのを、「時間」ではなく「その時」、つまり「機会、チャンス」として解釈した。

「お前」はおそらく「わたし」である。今までいったい何をしてきたんだという悔恨の叫びである。しかし、それならどうすればよかったのか、これからどうすればよいかはわからない。まだ言い足りないとしても、それは吐き出したい悔しさの言葉だろう。

この無力感、失望感、自己嫌悪から生まれる怒りは、「Us And Them」でこの世の不条理を見つめる冷静で悲しみに満ちた目とはまた異なる、自分自身に向けられた厳しい目である。

こんなはずじゃなかった、もっと大切な何かがあったはずじゃなかったのかという疑いと悔恨の念、それを活かせなかった自分への怒り。それは「お前」だけのことではなく、誰もが心の中に持っているものかもしれない。


2009年4月14日火曜日

「ミュージカル・ボックス」ジェネシス

原題:The Musical Box

■「怪奇骨董音楽箱」(Nursery Cryme)より







ぼくに「老いたコール王」を聴かせて
そうしたら
ぼくだってあなたたちの仲間になれるかも
みんなの心は今
ぼくからとっても離れているように思えるんだ
今はたいしたことではないみたいだけど

乳母はあなたたちに嘘を言うよ
空のかなたにある王国のことを
でも、
ぼくはこの半分の世界の中で迷子になってるの
今は
たいしたことではないみたいだけど

ぼくの歌をうたって
その歌がまた流れるんだ

 ぼくの歌をうたって
その歌がまた流れるんだ


ほんの少しだけ、もう少しだけ
ぼくが好きにしていられる時間がある

 ぼくの歌をうたって
その歌がまた流れるんだ

 ぼくの歌をうたって
その歌がまた流れるんだ


老いたコール王は陽気なおじいちゃんだった
陽気なおじいちゃんと言えば彼のことだった
彼はパイプが欲しいと言ったり
お椀が欲しいと言ったり
フィドル奏者を3人欲しいと言ったりした

そして時計、カチカチ音をたてる時計

 あのマントルピース(炉棚)の上にあるやつ
ぼくは望んでいる
ぼくは感じている
ぼくは知っている
ぼくは触っている
その壁を

彼女は淑女で 時間はたくさんあるの
ブラシで髪を掻き揚げて そして
ぼく
あなたの顔がわかるようにして
彼女は
淑女で そして僕のもの
 ブラシで髪を掻き揚げて そしてぼく
 あなたの身体がわかるようにして

ぼくはずっとここで待ち続けているの
時間は
ぼくを通り過ぎていくだけ
今はもう
たいしたことではないみたいだけれど
あなたはそこにしっかりした姿で立っている

そしてぼくが言わなきゃいけないことを全部疑っている
どうして
ぼくに触れてくれないの、触れてくれないの?
どうしてぼくに触れてくれないの、触れてくれないの?
ぼくに触れて、今 今 今 今 今…


オルゴール

年下のヘンリー・ハミルトン・スマイス(8歳)はシンシア・ジェーン・デ・ブレイズ-ウイリアム(9歳)とクロッケーをして遊んでいるところだった。愛らしい笑顔のシンシアは、打球づちを高く振り上げ、優雅にヘンリーの首を叩き飛ばした。二週間後、ヘンリーの子供部屋で、彼女は彼が大切にしていたオルゴールを見つけた。彼女は一生懸命になってその箱を開けるたところ、「老いたコール王」の曲が流れるとともに小さな幽霊の姿が現れた。ヘンリーが戻ってきたのだ - でもそれほど長
い間ではなかった。というのは部屋の中に立っていると、彼のからだはみるみるうちに歳を取り始めたのだ、子供の心だけ内に残して。一生の間ののさまざまな望み事が、次々と波のように彼を通り過ぎていった。彼はシンシアに、彼のロマンティックな望みを果たさせようとしたのだが、残念なことに彼の乳母が何の物音がするのかと子供部屋にやって来てしまった。本能的に彼女はそのオルゴールをヒゲの生えた子供に投げつけると、どちらも粉々になってしまった。


Play me "Old King Cole"
That I may join with you,

All your hearts now seem so far from me

It hardly seems to matter now.


And the nurse will tell you lies

Of a Kingdom beyond the skies.

But I'm lost within this half-world,

It hardly seems to matter now.


Play me my song,

  Here it comes again.
  Play me my song,
  Here it comes again.

Just a little bit,
Just a little bit more time,
Time left to live out my life.


  Play me my song,
  Here it comes again.
  Play me my song,
  Here it comes again.

  Old King Cole was a merry old soul,
  And a merry old soul was he.
  So he called for his pipe,
  And he called for his bowl,
And he called for his fiddlers three.


  And the clock, tick tock,
  On the mantlepiece,
And I want,
And I feel,
  And I know,
  And I touch,
  The wall.

  She's a lady, she's got time.
Brush back you hair, and let me
  Get to know your face.
  She's a lady, she's mine.
  Brush back you hair, and let me
  Get to know your flesh.


I've been waiting here so long
And all this time has passed me by.

It doesn't seem to matter now.

You stand there with your fixed expression
Casting doubt on all I have to say
Why don't you touch me, touch me?
Why don't you touch me, touch me?

Touch me now, now now, now, now ...


The musical box:
While Henry Hamilton-Smythe minor (8) was playing croquet with Cynthia Jane De Blaise-William (9), sweet smiling Cynthia raised her mallet high and gracefully removed Henry's head. Two weeks later, in Henry's nursery, she discovered his treasured musical box. Eagerly she opened it and as "Old King Cole" began to play, a small spirit-figure appeared. Henry had returned - but not for long, for as he stood in the room his body began ageing rapidly, leaving a child's mind inside. A lifetime's desires surged through him. Unfortunately the attempt to persuade Cynthia Jane to fulfill his romantic desire led his nurse to the nursery to investigate the noise. Instinctively she hurled the musical box at the bearded child, destroying both.


 
【メモ】
プログレッシヴ・ロックバンドとしてのGenesisを代表する1971年の作品。アルバムタイトルの「Nursery Crymes」は、「Nursery Rhyme(童謡、子守唄)」と、「Crime(犯罪)」と「Cry(叫び)」のイメージが重なる造語。“本当は恐ろしいグリム童話”とか“本当は恐ろしいマザーグース”みたいに、一聴すると童謡の持つ無垢で無意味な歌詞にも、実は恐ろしい意味が込められていた、というような不気味なタイトル。もちろんそれはこの「The Musical Box」とジャケットに色濃く表現されているわけだ。

まず歌われる歌詞とは別に「The Music Box」という短いお話がこの曲には付いている。「Lyric Wiki」にこの曲の歌詞の背景に関する詳細な説明があるが、この「The Musical Box」というビクトリア時代の妖精物語(Victorian Fairy Tale)曲に出てくるNursery Rhymeの一部らしい。昔話や童謡に見られるような唐突な話の展開、それも不気味な幽霊潭でもある。

歌詞はこのこの物語としての「The Music Box」を踏まえて、クローケーの木づちで頭を飛ばされてしまったヘンリーが語る形式を取っていると思われる。ちなみにクローケー(croquet)は、木槌で木球をたたき, 逆 U 字形の一連の鉄門をくぐらせる芝生での競技のこと。

そして「Old King Cole(老いたコール王)は、Nursery Rhymeにも出てくる人物。古代ケルト民族の王がモデルと言われる。音楽好きで陽気らしい。

そこで「僕」はその「Old King Cole」の出てくる歌を歌ってと願う。仲間としていっしょにいたいのだ。心が離れているのは気づいている。でももうこの世の存在ではないことには気づいていない。

「空のかなたにある王国」とは「天国」のことか。乳母はヘンリーが天国に言ったというだろう、でもそれはウソ、だって僕はこの半分の世界、つまり現世と天国の間にいるのだから。でも僕の歌を歌って欲しい。僕の好きな「Old King Cole」の歌を。

「老いたコール王は陽気なおじいちゃんだった」で始まる連はその「Old King Cole」の歌だろうか。「そして時計」で始まる連では、現実感に乏しい「僕」が自分の感覚を確認しているかのようだ。

その後に出てくる「彼女」はシンシアのことだろうか。とすれば、この歌は、シンシアがヘンリーのオルゴールを開けた時に現れたヘンリーの亡霊が、シンシアに向って言っている言葉だろう。「彼女」のことを「僕」は「僕のもの」と言っている。髪をかきあげて顔と姿を見せてと言っているのは、「あなたがシンシアでしょ」と確認しようとしているのか。

そして僕の言うことを疑っていることを悲しみ、最後に僕に触れてくれることを嘆願する。しつこくしつこく迫ってくる。恐いぞ〜。

ピーター・ゲイブリエルのボーカルの表現力が素晴らしい。しかしそれをサポートするバックの演奏も緻密。フルート、ギターが美しい。中間部でインストゥルメンタルパートがダイナミックな盛り上がりを見せる。叫び声のように切り込んでくるギターが凄い。

物語の内容を知らないと情景が掴みにくい歌詞ではあるが、曲単体で聴いても、ハードな演奏の魅力的なアンサンブルとともに、「僕」の気持ちを歌う緩急豊かなボーカルが「僕」の悲しみを伝えてくる。

ジェネシスが、歌詞とサウンド共に独自の魅力を生み出した名曲だ。

2009年4月12日日曜日

「ヴォイシィズ」ドゥルイド

原題:Voices

■「
Toward the Sun」(太陽に向って)収録









僕らは今でも夢を信じているのかな
朝がやってきて
太陽が昼間の大地を照らしているけれど
そして僕らの証人となる
夜の影たちは
百万もの鳥たちの歌の響きの中へと引きこもり
僕に長い夜の物語を
語っているけれど?

僕らが目を覚ました時
僕らは一緒にいたものたちから
忘れられてしまうんじゃない?
そんな気がするな
彼らはただ僕らがいたらいいなと思っていただけじゃない?
僕らはどっちが夢なのかわかるかな?
百万もの鳥たちの歌が響き渡り
僕に長い夜の物語を
語っている

僕らが動き出すのなら、一番近い虹に向って動き出す
僕らが旅するのなら、世界の果てを目指して行く
僕らが見つけるものは 夜になってもなくならない僕らだけのもの
でも夜明けが何が真実で何が見せかけなのかを決めるんだ
百万の人の声が歌いながら
僕に長い夜の物語を
語っている

Do we still believe our dreams
In the morning

As the sun shines day upon the ground

As the shadows of the night that are

Our witness

Are retreating to the sound

Of a million bird songs ringing,

Telling the story to me,
Of long nights' dreams?


When we wake

Do we find ourselves forgotten
By the ones we were with?
So it seems
Are they really there,
Or are they just our hoping?
Do we know which is the dream?
There's a million bird songs ringing,
Telling the story, to me,
Of long nights' dreams

As we move, we move towards the nearest rainbow.
As we journey, we're reaching for the end.
What we find is ours to keep in the night-time.

But dawn decides what's real and what's pretend.

There's a million voices singing,
Telling the story to me,

Of long nights' dream.



【解説】
古代ケルト民族においては、宗教の祭司(僧、予言者、詩人、裁判官、妖術者などを兼ねた)のことをdruid(ドゥルイド)と呼んだ。それをバンド名としたDruidは、イギリスのメロディー・メーカー紙主催のバンド・コンテストで優勝し、レコードデビューしたという経歴を持つ。この時のバンド編成はギター、ベース、ドラムスのトリオだったが、レコードデビューを前に、キーボードを加えた4人編成へと変わった。

トリオ時代からプロデビューするに際して、サウンド的にどれほど変わったかはわからないが、ハイトーンやファルセットを活かした美しいボーカル、その歌い方、硬質なリッケンバッカーのベースなどからは明らかにYesの影響が見て取れる。

しかしボーカルのドリーミーな声やフォークタッチの優しい曲調は、Yesの緊張感あふれる攻撃的なサウンドとは明らかに異なり、キーボードの加入で、バンドの夢見るような柔らかなサウンドが、さらに引き出せたのではないかと思う。

この「ヴォイシィズ」は1975年のデビューアルバム「Toward The Sun」の冒頭の曲。夜の僕たちと夜が明けた今の僕たちは、夜の間の夢を信じていいのかな、それとも夢は夜の終わりとともに消えてしまったのかな、という「僕」の気持ちを歌った曲である。

夜見ていた夢のような時間や想いは「僕ら(we)」が体験したことである。しかし朝が来て「僕」は不安になる。第1連と第2連はその不安が強いかのように相手に語りかける。
百万の鳥の歌声が響く中で、夜の物語が語られているのは「僕たち」ではなく「僕」。ここがこの歌詞のポイントだろう。

つまり「僕」は信じているのである。「僕たち」が夜一緒に見た夢のことを。不安なのは一緒にいたあなた(恋人か)が、その夢を「僕」と同じように、夜が明けた今も信じてくれているか、なのだ。

第3連は「僕」はもう語りかけるのをやめている。夜の夢だけでなく、昼間二人が共に進んでいくことを力強く言い切っている。「夜明けが真実と見せかけを区別する」というところまで言っている。つまり夜の夢に向って夜が明けても二人が進んで行ければいいのだ。

この最後の連だけ、「bird songs」ではなく「voices」になっている。それは自分の声かもしれない。鳥たちのさえずりの中に思い出していた夜の夢を、少なくとも「声」として、よりはっきりと聞いている「僕」がいる。

不安の中から、自信を持って進み出そうとする「僕」の様子が最後に描かれることで、希望に満ちた曲となった。おそらく「僕」の不安なんてただの杞憂なのだろう。でも行動を起こすことには勇気がいる。まして二人の未来のことであれば、相手の気持ちがどうかも大切なことだ。この曲は「僕」が迷いを吹っ切って二人で前へ進む決断をする瞬間を描いた詞と言えるだろう。

とても美しいハーモニーが印象的で、歌詞も演奏も初々しさの残る暖かい曲である。

2009年4月11日土曜日

「不思議なお話を」イエス

原題:Wonderous Stories

■「Going For The One」(究極)収録








わたしは今朝目覚めた

愛の神が川の近くにわたしを寝かせていた
わたしは川の上流を目指してゆっくり泳いだ
わたしに許しを与えてくれる人を目指して
あなたの顔を見るわたしの眼差しに託されたものの中の
音がわたしを黙らせた
なんの痕跡も残さずに
わたしは許しを請うた 不思議なお話を聞かせて欲しいと
その不思議なお話を聞かせて欲しいと請うたのだ

彼はそれほど遠くない土地のことを話した
彼の心の中にある土地ではなかった
そこでは高次元で融合が達成され
理性が彼の時間を捕らえたのだ
ほんの一瞬で 彼はわたしを門まで連れて行った
慌ててわたしはすぐに
時間を確認した
もし遅れたら、あなたの不思議なお話を聞くのに 許しを請わねばならなかった
あたなたの不思議なお話を聞くのに 許しを請わねばならなかったのだ

耳をすます
 耳をすます あなたの不思議なお話に耳をすます
 あなたの不思議なお話に耳をすます
嘘ではなくわたしには未来がしっかりと見える
全てを心に描く
あなたは近くにいた
そこはあなたがそれまでいた場所
最初に注意深く立っていた場所
するととても高く
彼が言葉を発するとわたしの魂は空へと駆け上った
わたしは魂に戻ってくるように命じた
あなたの不思議なお話を聞くために
戻って来てあなたの不思議なお話を聞くために
 戻って来てあなたの不思議なお話を聞くために

耳をすます
 耳をすます
  耳をすます
   耳をすますI awoke this morning Love laid me down by the river
Drifting I turned on up stream
Bound for my forgiver In the giving of my eyes to see your face
Sound did silence me
Leaving no trace
I beg to leave, to hear your wonderous stories
Beg to hear your wonderous stories 'LA AHA LA AHA'

He spoke of lands not far Nor lands they were in his mind
Of fusion captured high Where reason captured his time
In no time at all he took me to the gate In haste I quickly
Checked the time If I was late I had to leave, to hear your wonderous stories
Had to hear your wonderous stories 'LA AHA, LA AHA'

Hearing
 Hearing hearing your wonderous stories
 Hearing your wonderous stories It is no lie I see deeply into the future
Imagine everything
You're close And were you there To stand so cautiously at first And then so high
As he spoke my spirit climbed into the sky
I bid it to return
To hear your wonderous stories
Return to hear your wonderous stories
 Return to hear your wonderous stories
LA AH LA AH AH AH
 Hearing
  Hearing
   Hearing
    Hearing
     Hearing

【解説】
1977年発表、スタジオアルバムとしては「リレイヤー(Relayer)」に続く、第8作目にあたる作品。前々作の「海洋地形学の物語(Tales From Topographic Oceans)」発表後バンドを脱退したキーボードのリック・ウェイクマンが復帰し、アルバムジェケットもYesのロゴを残してロジャー・ディーンの幻想的絵画からヒプノシスの都会的イメージに変わった、心機一転の心意気を感じる作品。

「不思議なお話を」は、ジョン・アンダーソンが歌う牧歌的な曲で、旧アルバム構成上は、A面の最後が「パラレルは宝(Parallels)」のチャーチ・オルガンが鳴り響く派手な曲で終わったところで一息、B面に裏返して、再びラストの大作「悟りの境地(Awaken)」で盛り上がる前の小曲といった趣き。

正直なところ私的にはこの「究極(Going For The One)」は「リレイヤー」を聴いた後では物足りない。タイトル曲「究極」は素晴らしいと思うが、「パレレルは宝」はリックウェイクマンの時代がかったチャーチ・オルガンが曲のスマートさ、タイトさを損ねている感じがするし、「悟りの境地」は、前半の驚異的な緊張感が中盤以降途切れてしまい、「クライマックスは最初だったのか」といった消化不良を起こす。

したがって、むしろ大仰な演出を控えたフォークタッチな「不思議なお話を」が、思わず鼻歌を歌ってしまうように心に残るのである。実際、この曲はイギリスでシングル・カットされレコード・ミラー誌のチャートで7位を記録するヒットとなった。

そこで歌詞を見てよう。
まずタイトルの「Wonderous Stories」だが、「wonderous」という綴りは一般的ではない。正確には「wondrous(驚くべき、不思議な)」と書く。「wonder(驚異、不思議な物事)」という単語のイメージを残すために、わざとあまり一般的ではない「wonderous」を使ったのかもしれない。意味は同じ「不思議な」とか「驚くべき」など。

まず作詞をしたジョン・アンダーソンの言葉から。

「素晴らしく天気のいいスイスの1日だった。ずっと心に残るような最高の日和だった。そのとき“不思議なお話を”の歌詞を思いついたんだ。生き生きとした歌だよ。  張りつめた人生ではなく、人生の喜びを歌ったものなんだ。過去や未来のロマンチックなお話で、何と言うか、夢の続きのような感じなんだ。」

「イエス・ストーリー」(ティム・モーズ著、シンコー・ミュージック、1998年)より

相変わらず難解で解釈を拒むような感覚的な歌詞である。しかし上記のジョンの言葉を頼りに、プラス思考で流れを捉えていったみよう。

「わたし」は目覚めると川の近くに寝かされていた。「Love」によってとあるが、この後「愛する人」の話は出てこないので、もっと広い愛を持つ存在、愛の力で包み込んでくれるような存在と考えた。そこで「愛の神」と訳してみた。具体的な神話上の存在ではない。この愛の神が、わたしを「forgiver(許しを与えてくれる人)」へと続く川に連れて来てくれたのだ。

「forgiver」も、「神」と呼んでしまうと語弊があるかもしれない。特定の宗教の神を言っているわけではないのだ。「神のような、絶対的な力と慈悲の心を持つ超越的な存在」という感じか。「forgiver」という言葉もいい言葉である。人は基本的に不安で一杯なのだ。許し、受け入れて欲しいのだ。だから「わたし」は「forgiver」を目指して川を上流へと移動する。そして「forgiver=you」の顔を見ると、「音がわたしを黙らせた 何の痕跡も残さずに」、つまり「わたしは何も話すことができず、そこには何の音もしない静寂のみ存在した」ということか。

しかし「わたし」は請う
。不思議なお話を聞かせて欲しいと。「beg leave to do...(〜する許しを請う)」という表現があり「leave(許可)」という名詞として使われているが、ここでは本来はない「leave(許可する)」という動詞と捉え、「beg to leave =beg leave」(許可を請う)と訳した。「leave(去る、残す)」という意味の動詞ならあるんだけど、話がつながらないので、上の案を採用した。

第2連では、それまで「あなた」と言っていた相手が「彼」で始まっている。少し客観的な表現に変わる。「彼」は
それほど遠くない土地の話をし、時間を自由にあやつり、わたしをその「高次元で融合された土地」の門まで一瞬にして連れて行った。あなたの不思議なお話でわたしは時空を超え、過去の理想郷の門まで行ったということか。

しかしそのまま呆然としているわけにはいかない。「わたし」は「あなた」の話を聞きたいのだ。「あなた」の不思議なお話についていかなければならないのだ。

そして今度は「あなた」のお話を聞くうちに未来が手に取るように見えるようになる。

再び気づくと「あなた」は最初に立っていた場所にそのまま立っていた。時空の旅は一瞬のできごとなのだ。

また「あなた」のお話に耳を傾けると、魂が空へと駆け上ってしまった。わたしはその魂を呼び戻す。あなたの不思議なお話を聞き続けるために。

こうして「わたし」は、「あなた」の不思議なお話を聞くことでコントロール不能になりそうなほどに時空を行き来する。そして未来をも見ることができた。だけどまだまだ「わたし」は「あなた」の不思議なお話を聞きたい。その話を聞くことが自分の心の解放になるからだろう。
宗教的な色彩の強い寓話風であるが、物語と言えるほどの筋はない、とても感覚的な内容だ。


曲はゆったりした雰囲気で、ボーカルそしてボーカルハーモニー
美しく優しい。中間部の華麗なポリフォニックシンセサイザーの音がクラシカルなタッチを加える。確かにドリーミーである。アコースティックギターがリズムを刻み続け、平和なムードの中で曲は終わる。

聖歌のような、超自然的な至福の体験が持つイメージの神秘さと、それに説得力を持たせてしまうジョンの声を中心としたYesのクラシカルなアレンジが作り出した傑作と言える一曲。

理詰めで解釈することを拒むところが、Yesの詩の良さでもあり難しさでもあると、またまた実感した。

2009年4月10日金曜日

「あなたがここにいてほしい」ピンク・フロイド

原題:「Wish You Were Here」

■「Wish You Were Here

「炎 〜あなたがここにいてほしい〜」収録
 


{語り、ラジオ局を切り替えるかのように}
「...規律上、その部分は寛大にしてあるんだ。」

「そう、それでね...デリック、これがスターっておかしいよね。」
「うん、そうだな。」
「さて、どっちにする?」 「もう決めてるさ」

つまり、君は天国と地獄の見分けがつくと思ってるんだね、
青空と痛みも。
緑の野原と冷たい鉄のレールは見分けられるかい?
微笑みとベールは?
君は見分けがつくと思っているんだね?


それで彼らに言われて君は
亡霊たちを得るために 英雄たちを手放し
木々を
得るために 熱い燃え殻を手放し
涼風を得るために 熱い空気を手放し
変化を得るために 嬉しくもない慰めを手放し
戦いの端役を捨てて 檻の中の主役を取ったんだね?

どれほど、どれほど君がここにいてくれたらと思う。
僕らはまるで2つの地獄に堕ちた魂さ
何年も何年も、金魚鉢の中で泳ぎ続けるのさ
昔と変わらぬグランドを走り続けるのさ。
いったい僕らは何を見つけたというんだい?
昔と変わらぬ恐怖だけ。
君がここにいてほしい。

 
{Spoken, imitating the changing of radio stations}
"...Disciplinary it remains mercifully."
"Yes, and then... , Derek, this star nonsense."
"Yes, yes."
"Now which is it?"

"I'm sure of it."

So, so you think you can tell Heaven from Hell,
blue skies from pain.

Can you tell a green field from a cold steel rail?
A smile from a veil?

Do you think you can tell?


And did they get you
to trade your heroes for ghosts?
Hot ashes for trees?

Hot air for a cool breeze?
Cold comfort for change?

And did you exchange a walk on part
in the war for a lead role in a cage?


How I wish, how I wish you were here.

We're just two lost souls
swimming in a fish bowl, year after year,

Running over the same old ground.

What have we found?
The same old fears.

Wish you were here.
 


【解説】
「Wish You Were Here(炎 〜あなたがここにいてほしい〜)」のアルバムタイトル曲である。アルバムの中心をなす大作「狂ったダイアモンド」に、オリジナルメンバーのシド・バレットへの思いが満ちていると言われるが、この曲にもシドへの思いが込められていると言われる。

つまりバンドの才能あふれるリーダー的存在でありながら、ドラッグと周囲からのプレッシャーで精神を病み、バンドを去らなければならなくなったシド・バレットへ語りかけている歌だと。

では「僕」は何を語ろうとしているのか。

結論から言ってしまえば、それは遠くへ行ってしまった「君」への哀れみや思慕の情ではなく、「僕」自身の“孤独”である。あるいは“孤独”を共有できない苦しさである。

まず第1連は時制が現在、第2連は過去、第3連は現在であることに注目したい。「僕」は一貫して「君」に語りかける。あるいは問いかける。
第1連では現在の「君」に問いかける。「つまり、君は天国と地獄の見分けがつくと思っているんだね」と。これは「君」が「天国と地獄の見分けがつく」と思っていることを受けての“確認”の言葉であり、さらに「本当にそんなことを本気で思っているのかい?」という“疑念”の気持ちだ。あるいは「君はそう思っているだけで、実は何もわかっちゃいないんだじゃないのかい?」という思いが含まれていると言える。

次々と対になる言葉、心の解放を思わせる「blue skies」と心の痛み「pain」、自然の安らぎを思わせる「green field」と人工的で無機質な感じのする「冷たい鉄のレール」、幸福な「微笑み」と表情を隠す「ベール(ベールには“仮面”、“みせかけ”、の意味もある)は、大雑把に行ってしまえば、「人に取って好ましいもの」と「そうでないもの」、あるいは「自然な状態」と「不自然な状態」と言えるだろう。

「僕」は「君」が、本当はそんなことわかっていないと思っている。でも「君」はわかっていると思っている。あるいは思い込まされている。実はわかっていないことに気づいていない。

そこで「君」の過去を探るのが第2連だ。ここでは「trade A for B」と「exchange A for B」という表現が使われている。どちらも「BのためにAを捨てる、自分のAを相手のBと交換する」という意味だ。

「get you to 〜(君に〜させる)」する「彼ら」は、「君」をシドだとすれば、シドを取り巻くビジネスの世界の大人たち、もっと普遍的に見れば「大人たち、大人社会の者たち」だろうか。「亡霊を得るために英雄を手放し」は自分の夢をねじ曲げること、「木々を得るために熱い燃え殻を手放し」と「涼風を得るために熱い空気を手放し」は、不完全ではあっても自分の中に残っていた熱い思いや衝動を捨て、安定し落ち着いた生活を選んだ。今のままで「cold comfort(嬉しくもない慰め)」を受けるよりも「変化」することを取った。

そして「walk on(端役を演じる)」という動詞から、「walk on part」を「端役」と訳した。「in the war」は、生きていく戦いのような現実世界か。端役であれ、その一部として戦いに参加していた「君」は、「a lead role in the cage(檻の中での主役)」という、限られた見せ物的な世界での主役を選んだ。

この表現は確かに、一躍スターダムにのし上がった初期ピンク・フロイドのシドをかなり意識しているかもしれない。回りの期待に応えようとして与えられたイメージの中で精一杯役割をこなすこと、それが精神的病いにつながっていくのだけれど。

「彼ら」のもとで「君」は「君」なりに良かれと思った選択をした。それは「僕」とは違う人生となった。しかし「僕」は思う。「君がここにいてくれたら」と。第1連にあるように「君」はまだわかっているつもりかもしれない。

しかし第3連で再び今の2人が語られ、結局「君」と「僕」は同じ「地獄に堕ちた魂」なのだと言う。ここで初めて「僕」が出てくる。「in a cage(折りの中で)」と同じように「in a fish bowl(金魚鉢の中で)という、とても限られた世界で、ただただうろうろしていただけなんだと、「僕」は「君」への共感のかたちで「僕」の現状をも吐露する。

結局「(We have found)the same old fears.(昔と同じ恐怖があることを見いだしただけ)」なのだ。そして「君」がまだ「天国と地獄」の見分けがつく、つまり分別を持つと思い込んでいるだけ、その「the same old fears」は「僕」だけにのしかかってくるのだ。

しかし「I wish you were here.」は文法的には過程法過去。つまり「I wish I were a bird.(もし僕が鳥だったらなぁ。)」と同じように、現実にはありえないことを仮定する言い方だ。だから「君」はここには来ない。「僕」はそれをわかっている。わかっているけれど「君」にしかこの「僕」の辛さはわかってもらえないのだ。

なぜなら「僕」の苦しみは、かつて「君」が感じた苦しみだから。「The Dark Side Of The Moon(狂気)」の商業的大成功の後、シドを襲った周囲の期待やプレッシャー、勝手なイメージの押しつけと同じものが、今「僕」に押し寄せて来ているからだ。
 
だから冒頭に戻るけれど、第3者的な立場でシドを思いやったり哀れんだり、思い違いを諭してあげようとしたりしているのではない。彼も懸命に生きて来たのだ。この歌は、そうやってもがき苦しみながら、今は別の世界へ行ってしまったシドに思いを馳せながらも、「僕」が、自分一人で「恐怖」と戦う孤独感を訴え、理解してくれる人がそばにいて欲しいと切々とした思いを描いた、哀しみの歌なのだ。

そしてその「結局金魚鉢の中を泳ぎ回っているだけ」「同じグランドを走り回っているだけ」という認識は、実は、誰もが持っている感覚である。そしてその孤独を誰かに理解し共感してもらいたい。でも現実にはそうしてくれる人はそう簡単にはいない。だからこの曲はバンドメンバー(特に作詞者のロジャー・ウォーターズ)とシド・バレットの個人的な関係を越えて、聴く人全てに訴えかけてくるのであろう。

ラジオのアナログチューニングをしているようなSEで始まり、流れて来た曲に合わせるように弾かれるアコースティックギターで曲が始まるという、趣向を凝らしてはいるが、非常にプライベートな感覚の曲だ。大きな主義主張ではなく、自分の内にある苦しみや悲しみの思いが、静かに歌われる分、気持ちがストレートに伝わってくる名曲である。

なおアルバムブックレットにはこのSE的なつぶやきは歌詞として書かれていない。今回も
LyricWikiの歌詞データを参考にさせていただいた。
ただし、そこにも書き留められていない言葉が入っている。つぶやきの全てではないことをお断りしておく。そこはかとなく、「僕」あるいはバンドが抱いていた、社会への不信感の一端が伺えるかのようにも取れるつぶやきである。