2012年5月20日日曜日

「イズ・シー・ウェイティング?」マクドナルド・アンド・ジャイルズ

原題:Is She Waiting?

Mcdonald & Giles 収録(1970)





彼女は待ってくれているだろうか
灰皿はベッドのそばにあるだろうか
彼女のかたわらに
彼女は待っくれているだろうか
読むことのない本を手にしながら

僕が家へ帰るところなのを
彼女が知っているとわかればいいのに
幕は降りた
僕は家路を急ぐ

彼女は寂しがっているだろうか
僕に見せようと
海の絵を描きながら
朝になったら
彼女はそこにいる もちろん僕も

彼女のかたわらこそが
僕の居場所なんだ
僕に微笑みかけながら
彼女の顔が輝くのを見たい

彼女は眠っているだろうか
なかば起きていて
日の出の頃のドアに聞耳を立てながら
彼女は待ってくれているだろうか
もう一度僕と一緒になるために
わかっている彼女はそうしていることを

Is she waiting
Is the ashtray by the bed
Beside her
Is she waiting
With the book that's never read

I need to know she knows
I'm on my way home
Curtains closed
I'm back on the road

Is she lonely
Painting pictures of the sea
To show me
In the morning
She'll be there and I will be

Beside her is the place
I know I should be
See her face
Shine smiling at me

Is she sleeping
Half awake to hear the door
At sunrise
Is she waiting
Just to be with me once more
I know she is

【メモ】
1969年に歴史的名盤「クリムゾン・キングの宮殿」でデビューしたキング・クリムゾンは、やがて2ndアルバムを待たずして分裂状態となる。そんな中、管楽器&メロトロン担当のイアン・マクドナルドとドラムスのマイケル・ジャイルズが自らの名前を冠したアルバム「Mcdonald and Giles」を発表する。

この「Is She Waiting?」はアルバム中でも特にフォーキーな一曲。「僕」の「彼女」への思いが切々と語られる美しい曲だ。

理由も時期もわからないけれど、「僕」は「彼女」のもとを去って今は離れた場所にいる。でも心は「I'm on my way home(家路についている)」のだ。実際にかつて彼女と一緒に暮らしていた家に向っているのかもしれない。そして彼女のことを想像する。「僕」を待っていてくれるだろうか、と。つまり待っていて欲しいのだ。

一連で出てくる「ashtray(灰皿)」は「僕」が使っていたものだろう。「僕」の帰りを信じて、片付けないで置いてあることを願っているのである。「with the book that's never read(読まれることのない本)」も、手には取ってみたけれど気もそぞろで読む気になれない本なのだろう。そうやって「僕」のことを思い、待ち続けていて欲しいのだ。

「Curtains closed」は「幕は降りた」と訳した。「僕」が彼女のもとを去ってでもやろうとしたことが終ったのか、あるいは二人の「別れの場」が終ったということか。とにかく「僕」は再び彼女のもとへと急いでいるのだ。

第3連では「僕」に見せようとして絵を描きながら、彼女は寂しく過ごしているのかもしれないと気遣うようなことを言っている。しかし朝になったら「僕」は彼女のもとに辿り着き、二人でその絵にある海を散歩したいのだ。つまり実は彼女の心配をしているのではなく、そこまで思われていたい、許されたいという願望を表しているのである。

一番言いたいことは第4連の「Beside her is the place / I know I should be(彼女のかたわらこそが、僕がいるべき場所なんだ」という一文ではないか。そのために彼女に許してもらうのか受け入れてもらうのか、とにかく以前と同じように「僕」を迎えて欲しいのである。

ちゃんと眠ることもできずに、「僕」の帰りを待ちドアが開くのを待つ彼女。どれもこれも夢のようなシチュエーションである。「Just to be with me once more(ただもう一度僕と共にいるために)」とは、「共に暮らす」と言ってもよいかもしれない。要するに「よりを戻す」ということだ。

そして最後に自分に言い聞かせるように「I know she is(彼女がそうである…待ってくれている…ことを僕はわかっているよ)」と言うが、その不確かさや弱々しさを含めて、この曲はどうしようもない暗さを秘めている。美しくも悲しい曲である。1970年代的暗さ。日本のフォークソングにも通じる暗さである。それがまた心地よいのである。

ちなみに「クリムゾン・キングの宮殿」にも、フォーキーな曲「風に語りて」が収録されている。しかしこの「Is She Waiting?」の方がむしろ「クリムゾン・キングの宮殿」以前のブリティッシュ・フォークやブリティッシュ・ロックに繋がっている感じがする。「風に語りて」は歌詞の抽象性が不思議な雰囲気を醸し出しているし、何よりもフォーキーなギターのつま弾きがない。それが独特の緊張感溢れる空気を作り出しているのだ。

つまりキング・クリムゾンの特異性はロバート・フリップがそれまでのようなギターを“弾かない”ことが大きいのではないか。はからずもキング・クリムゾンの先進性にも思いを馳せてしまう曲なのであった。

2012年5月8日火曜日

「クリスタル・ボール」スティックス

原題:Crystal Ball

Crystal Ball収録





クリスタル・ボール(水晶球)

かつて僕は真っすぐで幅の狭い道を歩くことが好きだと思っていた
すべてはうまくいっているんだと思っていた
時々眠らずに見る夢の中で腰を下ろし何日もじっと見つめていた
たった独りで時の流れに身を任せて
たった独りで時の流れに身を任せて

未来は僕のために何を用意してくれるんだろう
いや果たして僕は未来に覚えてもらっているんだろうか
たぶん僕は未来を見るチャンスを手にするだろう
自分自身が水晶球だとわかった瞬間に
自分自身が水晶球だとわかった瞬間に

教えておくれ、僕はどこに向っているのかを
どこにいるのかすら僕にはわからないんだ
教えておくれ、お願いだ教えておくれ
もっともっと教えて欲しいんだ
僕の胸は張り裂け身体は痛み続けている
どこへ行けばいいのかわからないんだ
教えておくれ、お願いだ教えておくれ
知らなければならないんだよ

水晶球よ
知りたいことが山ほどあるんだ
水晶球よ
知らなければならないことが山ほどあるんだ
水晶球よ

手遅れにならないうちに、僕に教えておくれ
 
I used to like to walk the straight and narrow line
I used to think that everything was fine
Sometimes I sit and gazed for days through sleepless dreams
All alone and trapped in time
All alone and trapped in time

I wonder what tomorrow has in mind for me
Or am I even in it's mind at all
Perhaps I'll get a chance to look ahead and see
Soon as I find myself a crystal ball
Soon as I find myself a crystal ball

Tell me, tell me where I'm going
I don't know where I've been
Tell me, tell me, won't you tell me
And then tell me again
My heart is breaking, my body's aching
And I don't know where to go
Tell me, tell me, won't you tell me
I've just got to know

Crystal ball
There's so many things I need to know
Crystal ball
There's so many things I've got to know
Crystal ball

Won't you tell me please before I go

【メモ】
トミー・ショーが加入して一気にスターダムに伸し上がろうかという勢いに溢れた作品「Crystal Ball」(1976年)から、アルバムタイトル曲「Crystal Ball」である。同時期にプログレ・ハードとして活躍したカンサス(Kansas)の「Dust in the Wind」にも似た、ドラマチックなバラードだ。

Crystal Ballとは「水晶球」のこと。無色透明の宝石として、あるいはパワーストーンとして扱われることもあるが、一方で占い師が意図的に幻視するための道具というイメージも強いように思う。ここでは後者の、未来が見える不思議な石として登場している。


第1連の最初の2行は「used to do...」という表現が使われている。「(昔は)よく…したものだった」とか「…するのが常だった」など、過去の習慣や常習的行為を示す言い方である。「walk the straight and narrow line(真っすぐで幅の狭い道を歩く)」とは、見通しが利いて分かりやすく、限定された狭い世界を歩くイメージだろう。「walk the line」で「正しい行動を取る」という意味もあるから、品行方正な真面目な生き方だけをしていたという意味合いも含まれるように思う。つまり簡単に言ってしまえば“純粋な良い子”であったという感じだろうか。だから「think that everything was fine(すべてはうまくいっていると思う)」ことが常だったのである。世の中や人生に何の疑問も不安も抱いていなかったのだ。


でも今僕は昔とは違ってきている。眠ってみる夢ではなく、眠らずに見る夢、つまり様々な不確かなことへの想像や夢想を、歩くのを止めて腰を下ろして行なうようになってきたのだ。「I'd like to...」は「…したい」という意味だから、ただ決められたシンプルで正しい道を屈託なく歩いていた自分に疑問を持ち始め、立ち止まって考える時間を求め始めたのである。「all alone and trapped in time」とあるように、与えられた道をそのまま受け入れるのではなく、自分自身で考えたいのである。「trapped in…」は「…の中で囚われの身になる」とか「…に閉じ込められる」という表現なので、「時間の中に閉じ込められて」→「十分な時間を費やして」→「時間のことなど気にせずに」といった感じであろうか。


第2連では「tomorrow」が擬人化されている。「明日」でも良いのだが、ここでは自分の将来のことが後述されるので「未来」と訳した。「I wonder what tomorrow has in mind for me」とは直訳すれば「僕は、“未来”が僕のために何を心づもりしていてくれるのだろうかと思う」という感じ。2行目の「Or am I even in it's mind at all」は、「?」は付いていないものの「いや果たして僕は“未来”のこころづもりの中に入っているんだろうか」という問いだと取った。


つまり1行目の「“未来”が自分のために何かしてくれる」という前提そのものを、2行目では疑っているのである。“未来”が僕にしてくれる中味をあれこれ考える以前に、そもそも“未来”が何かをしてくれるのか?してくれないんじゃないか?という根本的な問いであり不安の表出である。


そこで水晶球のイメージが登場する。もし自分自身が水晶球であるとわかれば、「僕」は自分の未来を見るチャンスを得るだろうと言う。自分自身を水晶球に例え、自分の中に自分の未来の可能性を見つけようとしているのである。しかしそれが浮かんでくるかどうか、つまり本当に自分が水晶球であることがわかるかどうかは、まだはっきりしない。


だから第3連では自分に語りかけるのだ。ちょうど魔術師や占い師が水晶球に未来の映像を呼び出すかのように。「tell me」の繰り返しが痛々しく切ない。未来を疑いなく単純に描くことが出来た幼い日々は終わり、自分の居場所も向っている先もわからず、心は張り裂け身体は痛み、それでもすがるように自分自身に自分の未来を尋ね続けている若者の姿が目に浮かぶ。


実際に水晶球を前にして未来を占っているのだとしたら、このような切々とした思いは伝わってこないであろう。水晶球に例えた自分自身に問い続けていることが、聴く人の心を打つのだ。しかしまだ何も浮かばない、つまり水晶球にもなり得ていないという悲しみや不安の中で、 「知りたいことは山ほどあるんだよ」と「僕」は自分の可能性を見いだそうと必死なのだ。あるいはその可能性が見えるまでの苦悩と戦っているのだ。


ラストの「before I go」は、占い師の前から席を立ってしまうイメージに重ねて、未来が見えず未来への夢や希望を持てないまま、現実に流されてしまう前に、というような感じではないか。

この曲はそんな自我に目覚めた若者の、弱々しくも何とか前に進もうとするギリギリの思いが込められた歌である。美声だがメタリックな強さと突き抜けるような明るさ(ある意味能天気さと言ってもよいかも)を持ったデニス・デ・ヤングではなく、翳りのある声のトミー・ショーが歌ったからこそ、「僕」の若者としての苦悩が浮かび上がり、後世に残る傑作となったように思う。


そして実はこの気持ちは、年齢に関係なく今の時代に誰もが抱えているものなのではないかと思う。未来のビジョンが描けない世界、自分自身の可能性が見いだせない世界に、今のわれわれは生きているのだ。1970年代には自我に目覚めた悩める十代の歌だったかもしれないが、今はこの時代を生きるすべての大人が共感できる歌に変っているのかもしれない。 時々無性に聴きたくなる曲の一つである。