2010年11月28日日曜日

「ほんの少しだけ(人生は川のようなもの)」P.F.M.

原題:Appena Un Pò / P.F.M

「Per Un Amico(友よ)」収録







「ほんの少しだけ」

ここから出て行くんだ
遠くの場所へと
王様のように堂々と
僕の望むままに
そうしたら僕も立ち去ろう
そして別の真実に向って走り出そう。
僕らはそう、信じている、でも
もう十分…出て行くんだ…つまり
ここから出て行くんだ、ここから外へと…君…
さぁ、ここから出て行くんだよ。

別の真実の中で
僕を見つけておくれ、ただし、あぁ
そして僕の前に空間が広がっていることを
ここから出て行くんだ
ここから出て行くんだ
今すぐに
ここから出て行くんだよ


「Just a little」

Get out of here
away from here
like a king out of here
just as I want.
I would depart, I would run
toward another truth.
We believe uh, however
enough ... just leave ... I would say
away from here, away from here ... you du du ...
now, away from here.

In another reality
find me, but uh
to see space ... space in front of me ...
away from here
away from here
immediately
away from here.

※ 英詩はオリジナルイタリア語の歌詞を自動翻訳したものを元に
イタリア語辞典などを使用し英訳したものです。

【メモ】 
イタリアを代表するバンドPFM(Premiata Forneria Marconi)が1972年に発表したセカンドアルバム「Per Un Amico(友よ)」から、冒頭の一曲である。

キング・クリムゾンのピート・シンフィールドが彼らを気に入り、自ら英詞を提供して「Photos of Ghosts(幻の映像)」を作り上げ、世界進出の後押しをしたのは有名な話であるが、その元となったイタリア盤がこの「Per Un Amico」である。「Photos of Ghosts」は本アルバム収録曲全曲、1stから1曲、新曲1曲という構成で、1曲を除き全てに新たに英語の歌詞がつけられているのだ。

中でも「Photos of Ghosts」冒頭の「River of Life(人生は川のようなもの)」は、非常にドラマティックな曲展開と、人生の移りゆく姿を描いたような雄大な英詩により、強く印象に残る曲となっている。

そこでその「River of Life」のオリジナル曲はどのような歌詞であったのか。それを確かめるべく、今回もまたGoogle翻訳を基本に、他の翻訳サービスやイタリア語辞典などを参考にして英語訳を試み、そこから和訳するという手順を踏んで、オリジナル曲の内容に迫ってみた。

一見するとわかるように、ピート・シンフィールドの英詩とは全く内容が異なっている。英詩の雄大な時間の流れと空間の広がりを思わせる世界は、ここにはない。ここで歌われているのは、もっと個人的な「僕」と「君」との小さな世界での出来事だ。その言葉や表現も多くはない。

しかし、それは「Per Un Amico(友よ)」というタイトルに呼応したような物語であり、よりストレートな感情を表現したものとなっている。

「Photos of Ghosts」訳でも紹介したように、ドラムスのFranz Di Cioccioはこの歌詞について次のように述べている。

「彼(ピート・シンフィールド)の詩はもとの歌詞とは全く異なるものです。彼はP.F.Mのサウンドを聴き、そこからインスパイアされたものを英詩にして書き上げたんです。ピート・シンフィールドは私達の音楽に彼の世界観を反映させた詩をのせることで、彼独特の色を楽曲に加え、新たなマテリアルとして再生させたのです。『人生は川のよう なもの』の詩に関して言えば、わたしはオリジナルよりも良い出来ではないかと思っているんです。あのサウンドに完璧にマッチしたコンセプトではないでしょ うか。」
「ArchAngel 第5号」(DIW音楽出版、1996年)

しかし「Photos of Ghosts」が世界進出へ向けた戦略の中で、ピート・シンフィールドが壮大な歌詞をもって楽曲の新たな魅力を引き出したとするなら、「Per Un Amico」はもっと自然なPFMらしさが溢れた作品だと言える。よりプライベートでシンプルな歌詞による、小さな世界の歌なのだ。

ここでは「僕」は「君」に「ここから出ていくんだ」と終始言い続けている。「出て行って」と言うと、「僕/わたしの前からいなくなって」という恋愛の場面を思い浮かべたが、そういった英語のニュアンスによって場面を限定するのは危険だと考えた。そこで2通りの解釈を試みた。「恋人との物語」と「同士との物語」の2つである。
仮に「僕」と「君」が恋人だとすれば、「僕」がその新しい真実(reality)に求めているのは「距離(空間)」である。二人の間の「距離」。それは「僕」と「君」との違いを認め合うことかもしれないし、プライバシーに踏み込まないことかもしれない。あるいは束縛し合わないことかもしれない。とすれば、この曲は「友」ではなく、「恋人」へ向けた別れの言葉を歌ったものだとも解釈できるかもしれない。
 
タイトルの「ほんの少しだけ」と併せて考えれば、別れようと強く言っているわけではないのだろう。しかし「僕」も「君」も、「別の真実」の中に身を置くべきだということを言っているのである。「僕」は「別の真実」の中でまた「君」に会いたいと思っているようだ。嫌いになったわけではない。いやむしろ今でも愛しているのかもしれない。しかし今の関係は辛過ぎる。だからこそ思い切って、強引に、そして執拗に、「僕」は「出て行くんだ」と繰り返す。

愛し合うが故に、相手との距離や違いを受け入れることができなくなり、互いに共にいることが息苦しくなってしまった恋人たち。あるいは愛する「君」の束縛に耐え切れなくなってしまった「僕」。そんな光景が浮かぶ。

タイトルの「ほんの少しだけ」に結びつけるなら、そうしたやり切れない思いも、今ちょっと自分の気持ちを整理すれば落ち着くものなのかもしれない。「ちょっと放っておいてくれ」「ちょっとどこかに行っていてくれ」と。このような恋愛における複雑な思いが、ここでは描かれているといってもいいのかもしれない。

次に「僕」と「君」の恋愛関係を歌ったものではないとしたら。「ここから出て行くんだ」の「ここ」とは「僕の前」ではなく、もっと一般的な「現状」をさしているとも言える。つまり当時のイタリアの若者達が、特にコミュニズムへの強い関心を持ちつつ、現状を変えようという思いに繋がる心情である。

「今あるリアリティー」ではなく「別のリアリティー」を見つけ出すこと。そのための第一歩。だから「君」に出て行くことを促している「僕」も、当然ここから立ち去るつもりでいるのだ。

そして新しい「reality」の中では、僕の前には空間が広がっている。今の閉塞感から解放された、可能性の広がる世界が広がっているかもしれないと。とにかく現状から踏み出すことが大事なんだと「僕」は「君」に促している。そういう見方をすれば、これは一種のメッセージ・ソング、あるいはアジテーション・ソングだということもできるだろう。「ほんの少しだけ」でもいい。動くんだ、行動にうつすんだ、現実を帰るために。ということである。

どちらの解釈にしても、それはピート・シンフィールドが描いた雄大な人生の縮図とはまた別の、極めてパーソナルな心の機微を描いた、リアリティのある歌詞だと言える。

ピート・シンフィールドの詞がつけられた「Photos of Ghosts」は、アルバムジャケットの素晴らしさと相まって、幻想的で神秘的な作品となった。それはそれで、力強く、非常に完成度の高いものとだったが、PFM的に見ればそれは本来の自分たちの世界とは異なっていて、「Photos of Ghosts」はピート・シンフィールドとのコラボレーション的感覚が強かったのではないか。そんな印象を持ったオリジナルの歌詞であった。

事実、次作の「甦る世界(邦題)」は英語盤「The World Became the World」と同時にイタリア語盤「L'Isola di Niente」を出しているし、歌詞を英語に統一した「チョコレート・キングス」では、バイオリン&フルートのマウロ・パガーニのイタリア語詩を、新加入のボーカリストであるベルナルド・ランゼッティらが英訳したものだという(Wikipediaより)。

恐らく自分たちの世界は、必ずしもピート・シンフィールド的世界とは一致していなかったことを、メンバーは最初から感じとっていたのではないだろうか。

2010年11月7日日曜日

「安息の鎮魂曲(R.I.P)」バンコ

原題:R.I.P (Requiescant In pace)/ Banco Del Mutuo Soccorso

Banco Del Mutuo Soccorso収録







「安らかに眠らんことを」

軍馬も兵士も折れた槍も
赤い血と
いるはずの神がいないままに
孤独の中で死んでいった人々の嘆きに染まっている

長きにわたり太陽と
埃とのどの渇きにさらされし弟子たちよ
あなたたちは常に死の不安を感じている
その理由が理解できないままに

安らかに眠らんことを 安らかに眠らんことを
安らかに眠らんことを 安らかに眠らんことを

死体の山は
あなたの栄光を示す
しかし自分自身に流した血は元に戻るだろう
あなたの戦いは終わったのだ、老いた戦士よ

そこで彼は風下に腰を降ろした
あなたの目は虚空をうつろに見つめる
太陽はその目を照らし
あなたの心臓を突き刺す短剣となる

あなたはもう、もう地平線に槍を突き刺そうとして
突進する必要はないのだ
超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために

しかしあなたは望むだろう
あなたが体験した痛みや悲しみを
超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために

超越した存在となるために
ただ神のみぞ知ることを発見するために


Horses bodies and broken spears
are colored in red,
complaints of people who die alone
without a Christ who is there.

Pupils huge sun-times
dust and thirst
Do you feel the anxiety of death always on
although you will not know why.

Requiescant in peace. Requiescant in peace.
Requiescant in peace. Requiescant in peace.

On piles of dead flesh
have set your glory
But the blood you spilled on yourself relapsed
your war is over, old soldier.

Now he sat down the wind
your eyes are left hanging in the sky
the sun is shining on the eye
into thy heart is a dagger

and you do not, do not lance no more
your spear to stab the horizon
to push beyond
to discover what only God knows

but you will only
the pain, the tears that you've got
to push beyond
to discover what only God knows.

To go beyond,
to discover what only God knows ...
※ 英詩はオリジナルイタリア語の歌詞を自動翻訳したものを使用しています


【メモ】
イタリアのバンドバンコ(Banco Del Mutuo Soccorso)のデビューアルバムからの2曲目。1曲目が語りなので、実質バンコが発表した最初の歌詞となる。

さてここで十分お断りしておきたい。ここで使用した英語の歌詞は実はイタリア語のオリジナル歌詞を自動翻訳して英訳したものなのだ。比較検討した結果、ここでは一番文章的に無理のないGoogle翻訳を使用している。

言語構造がまったく異なる日本語に翻訳するよりは、よりオリジナルな歌詞を理解し易いように英語翻訳を行なった。もちろんそれでも問題を多く含んだ英訳であることは考えられるが、それでもバンコの歌う世界に触れてみたいという気持ちから、敢えてこの英訳をもとに歌詞の和訳を試みた次第である。ご容赦願いたい。そしてお気づきの点があれば、ご指摘いただけるとうれしいです。

さてではその和訳(超訳か)をもとに、歌詞内容を見てみたい。タイトルの「R.I.P」はラテン語の「Requiescat in pace」を省略した言葉で「安らかに眠れ」という意味。つまり死者へ向けた手向けの言葉である。

ここでは戦い続け、ついに死に瀕している戦士の姿が描かれる。第1連「いるはずの神がいないままに/孤独の中で死んでいった人々」とあるが、そもそも神は自分を守ってくれるはずなのである。しかし死した人々は結果的に神に守られなかったことになる。その神への思いは通じなかった。いると思っていた神は、自らの傍らにはいなかったのだ。悲しい死。報われない死。絶望の中での死。

第2連では「pupil」という言葉が出てくるが、これは“神の教え子”というような意味合いだろうか。つまり神を信じる者たち。キリスト教国においては、一般市民がほとんど含まれるといえるだろう。彼らは理由もわからないまま、数々の苦難の中を生きる。そして常に死の不安を抱いている。

第1連では、戦場で戦い、傷つき、絶望の中で死んでいった兵士たちを、そして第2連では死の不安を抱えながら、苦しみつつ日々を行きている人々を、それぞれ描いている。

そして第3連。「安らかに眠らんことを」という言葉が、おそらくその両者に向けて繰り返される。

第4連では「老いた戦士」が登場する。彼はこれまで戦い続け、死体の山を気づき、栄光を手にしてきた。しかしその分、自らも血を流してきた。しかしその血もまた戻ってくる。なぜなら戦いは終わったからだ。もはや新たに血を流す必要はない。

ところがこの「老いた戦士」は、今自由と平和と名声を手にしているわけではないことが、第5連でわかるのだ。彼は腰を降ろす。目はすでにうつろで、太陽の光がその目を照らし、その心臓を短剣のように突き刺す。そう、彼は今死なんとしているのだ。戦いに疲れたか戦いに敗れたか、老いた戦士である彼は今その最後の時を迎えようとしているのだ。

その彼をいたわるように第6連が続く。もう戦うことはないのだ。戦いをやめてよいのだ。「地平線に槍を突き刺そうとして/突進する…」という比喩は、意味も目的も良くわからないまま、戦い続けてきた様子を示しているのだろうか。そしてまもなく「(生を)超越した存在」となり「神のみぞ知ることを知る」のである。

しかしこの老兵士は死に際して、自分が体験してきた苦しみや悲しみを求める。ここでは「will」を助動詞ではなく「欲する」という動詞として解した。おそらくそれが彼にとっての人生であったのだ。その人生を否定することは彼にはできないのかもしれない。

そして今彼は苦しく悲しい思い出を胸に、死を迎えようとしている。

この詩が物語っているのは何であろうか。「戦場」での敵との戦いは、そのまま「人生」を生き抜く戦いの比喩と取ることも可能だろう。「老いた戦士」は最後に戦いに負けたのではなく、まさにその「老いた」ことで、戦いの場から身を引こうとしているのかもしれない。

しかし傷つき、嘆き、不安を抱き、痛みや悲しみを経験しながらも、彼は「神」を信じ、「神」のもとへと召され、「神」のみが知っていた真実に触れることを求めているのだ。老兵士の描写からも、そこに「神」あるいは「宗教」への批判や非難は感じられない。

この曲はイタリアらしい、きわめてキリスト教的な人生のありようと、その最後に待っているR.I.P(安らかに眠る)という希望を歌ったものだと言えるのではないだろうか。

宗教的な内容ながら、敢えて「キリスト教」という言葉を使ったのは、イタリア国民の97%がキリスト教カトリック教徒である(外務省:イタリア共和国より)という背景、そして「God」がキリスト教の神を指すことが多いという理由による。

若者たちが共産主義体制を求めていた1970年前半当時の政治的背景を感じさせるAreaとは違って、この曲では明確な体制批判も宗教批判もない。しかし、もしかすると「神」を信じ「神」のもとに行くことを願って死んでいく人々に、結局「神」は苦しみと悲しみしか与えていないのではないかという疑問を投げかけているのかもしれない。

だから、せめて「神」を信じて生きている時には報われたなかった「安らぎ」を、彼が信じていた通りに死に際して得られることを、死んでいく老兵士に願っているのかもしれない。