2011年7月28日木曜日

「cansona」オザンナ

 原題:canzona

「ミラノ・カリブロ 9(Milano Calibro 9)」収録






「歌曲」

あぁ、顔を背ける時もくるだろう
そんな時も来るだろう
あぁ、一緒に楽しく時を過ごす時もくるだろう

そんな時も来るだろう
遅れた理由があったふりをする時も
死する時も創造する時も
暴君たる時も奴隷たる時も来るだろう

あぁ、理由が知りたくなる時も来るだろう
そんな時が来るだろう
死んでいく名も無き斬り込み要員になる時も

そんな時も来るだろう
心の中のあらゆる争いと平和がお伽噺を忘れてしまい
わたしが盲目となる時も
 
呪う時も来るだろう
嘘をつく時も
その時わたしはあえてそうするだろうか?
わたしは何をするのだろうか?
わたしは何を言うのだろうか?

わたしは何を叫ぶのだろうか?
何日に渡るのか?
何世代に渡るのか?

あぁ、世界の海を渡る時も来るだろう
そんな時も来るだろう
あるいは膝を屈する時も
そんな時も来るだろう

しかし決して終りなきこの午後をわたしは過ごし続ける
コーヒースプーンで日々を数えながら

いったいこれまでわたしのものになったのは何かを探りつつ
何日に渡るのか?
何世代に渡るのか?
でもそんな時が来るだろう…


oh, there will be time to turn away
there will be time
oh, there will be time to meet and play

there will be time
and to pretend I've got a reason to be late
there will be time to die and to create
to be the tyrant or to be the slave

oh, there will be time to wonder why
there will be time
or to be some boarder passing by

there will be time
there will be time for every war and peace at mind
forgettin' fairy tales until I'm blind

there will be time to curse
and time to lie
then will I dare?
what will I do?
what will I say?

what will I cry?
how many days?
how many lives?

oh, there will be time to cross the seas
there will be time
or to fall, to fall down on my knees
there will be time

but I am spending never ending afternoons
countin' out days with coffee spoons

in search of what has been already mine
how many days?
how many lives?
but there will be time...

※ 歌詞はアルバムジャケットに印刷されたものを使用しています。
実際の歌唱では、同じ部分の繰り返し等、上記歌詞とは若干異なる部分があります。

 
【メモ】
本作「Milano Calibro 9」は1972年に発表された、イタリアのバンドOsanna(オザンナ)の2ndアルバムである。音楽内容的には映画音楽の巨匠Luis Enriquez Bacalov(ルイス・エンリケ・バカロフ)との共作によるイタリア映画のサントラであり、New Trolls(ニュー・トロルス)の「Concerto Grosso(コンチェルト・グロッソ)」と同じパターンだと言える。

映画「Milano Calibro 9」は、Fernando Di Leo(フェルナンド・ディ・レオ)監督によるイタリアン・アクション映画だそうだが、本アルバムとは別バージョンの挿入曲がOsannaによって演奏されているらしい。その辺りは実際に確認していないので定かではないが、一応本作がサウンドトラックな面がそれなりにあることは確かなようだ。

しかし一個のオリジナルアルバムとしての完成度も非常に高い。その美と混沌の渦巻く世界を締めくくるのが、このボーカル曲「Canzona」である。

キーフレーズになるのがサブタイトルである「there will be time(そんな時がやってくるだろう)」であり、これから起こるであろう様々なことがらを、まるで達観したように「私」が想像していくという流れになっている。

示される内容は大まかに逆の事柄が並べられているように思われる。第1連の「turn away(そっぽを向く/立ち去る)」と「meet and play(会って遊ぶ)」、第2連の「to die and to create(死と創造)」、「tyrant(暴君)」と「slave(奴隷)」。そこに「to pretend I've got a reason to be late(遅れてしまった理由があるかのごとく振る舞う、実際はないのだけれど)」というような、日常的な事柄も並列されていく。

第3連も「boarder」を「敵船に向う斬り込み要員」という意味で取れば、ただ命令に従って命を落とす名も無き人が、「to wonder why(理由を知りたくなるような)」という表現と対比されているとも取れそうである。

第7連の「世界の海を渡る」とは世界を制覇した支配者かもしれない。それならば「膝を屈する」被支配者と、これも対照的なイメージを成していると取れる。

そうした様々な事柄が、これから、あるいはこれからも、訪れるだろうと「わたし」は夢想している。そしてそうした様々な状況の中で、わたしは「will I dare?(自らあえてそうしようとするだろうか?」とか、「何をするだろう?」「何を言うだろう?」「何を叫ぶだろう?」と、「わたし」自身の身の処し方を問う。
 
そして「how many days?(何日?)」「how many lives?(何世代/いくつの人生?)」を送ると、そんな時がやってくるんだろう、そう考えているのだ。

現実のわたしは今終ることがないかのような、平和な午後を過ごしている。「afternoons」と複数形であることから、そうした生活を送っていると考えてもいいかもしれない。そしてコーヒースプーンを並べながらだろうか、過ぎし思い出の日々を数え上げているのだ。「in search of what has been already mine(わたしのものになったのが何かを探りながら)ということは、現実は過去に縛られているのかもしれない。

どことなく年老いた人物を想像してしまうのだ。これまでの人生を振り返りながら平和な午後を過ごしている老人。「there will be time(そんな時が来るだろう)」の中には、今まで経験したことも含まれているのかもしれない。そしてまた生まれ変わった次の人生のことも。

この詩はある程度平凡な人生を送ってきた人物が、その晩年にあたる時を迎えて、これまでやってきたことと、これまでやってこなかったこと(あり得なかったことも含めて)を、達観したような眼差しで、静かに思い巡らしている様子が描かれているように思えるのだ。

何かを悟ったわけでもなく、何かを求める強い願いや感謝の祈りや、あるいは悔恨の念があるわけでもない。淡々と過去から未来へと続く時間の流れの中で、ただ冷静に自分を見つめているのである。そこに何とも言えない哀愁が漂い、美しいメロディーとストリングスの調べと重なって、深い感動を呼ぶのである。

以下余談である。
 
・アルバムジャケットには上記の歌詞のイタリア語訳が載っており、最後に「da T.S.Elliot(by T.S. Elliot)」と書かれている。「Waste Land(荒地)」で有名なアメリカの詩人(1888-1965)である。しかし「The Love Song of J.Alfred Prufrock(アルフレッド・プルーフロックの恋歌)」(1917)に「there will be time」や「coffee spoon」などの共通する言葉や、「Do I dare?」などの似たような表現が出てくるが、この歌詞と同じものは見当たらない。「(inspired)by(〜にインスパイアされた/インスピレーションを得た)」ぐらいな感じか。

・「Canzona」の副題となっている「There will be time」は、同名のタイトルで1972年にアメリカの作家ポール・アンダースン(Poul Anderson)がSF小説として発表し、1973年のヒューゴー賞にノミネートされている。時期的に、タイトルをつける上で参考にした可能性はあるかもしれない。

・「Milano Calibro 9」はイタリア語読みなら「ミラノ・カリブロ・ノヴェ」と発音する。「Milano」はイタリア北部の都市名、「Calibro 9」はピストルの「9mm口径」で、インチ表示でいうところの「35口径」(3.5インチ口径)のことだと思われる。こうしてみると、やっぱりマフィア&アクション映画のタイトルっぽいのである。

2011年7月11日月曜日

「トゥ・ビー・オーヴァー」イエス

原題:To Be Over

  




 

「終焉」

われわれは穏やかな流れを舟で下っていく
橋の近くで終ることなく漂い続けながら
終焉、私たちは目にするだろう、終焉を

賭け事のような運がものをいうゲームや
あなたの夢を常にしまい込むドアなどに苦しむのは止めよう
熟考するんだ、時はあなたの恐れを癒すだろう、熟考するんだ
あなたの内側に解き放たれた思いのバランスを保つんだ

子どものような魂を持った夢見る人よ
一つの旅路、それはあらゆる光の中で求め見つける旅路
真実の小道を次々と開くんだ

次第に近づきながら
静かに進むんだ、ドアを押さえておけばすべての道が開かれるだろう
あなたは真実の小道を絶えずさまよい歩くだろう

結局あなたたちの魂はそれでも屈した状態かもしれない
しかし結局あなたの役割は愛される準備ができているということを
疑ってはならない

 
We go sailing down the calming streams
Drifting endlessly by the bridge
To be over, we will see, to be over

Do not suffer through the game of chance that plays
Always doors to lock away your dreams
Think it over, time will heal your fear, think it over
Balance the thoughts that release within you

Childlike soul dreamer
One journey, one to seek and see in every light
Do open true pathways away

Carrying closer
Go gently, holding doors will open every way
You wander true pathways away

After all your soul will still surrender
After all don't doubt your part
Be ready to be loved

【メモ】
Yes最大のアバンギャルド作であり、インストゥルメンタル方向へ針が振り切れた1枚「リレイヤー(Relayer)」(1974)。全3曲という大作は、Yesが未知の世界に猪突猛進していった時期の最後のアルバムと言えるかもしれない。ヘヴィー・シンフォとも言えるし、テクニカルシンフォとも言える。しかしその言葉のイメージする音ともまた違う、Yesにしか作り得なかった、壮大で斬新な傑作だ。

この曲はアルバムの最後に収められたもので、攻撃的で長大な1曲目、頭がクラクラするような難曲の2曲目に続いて、アルバム最後を平和な雰囲気で閉じるかのような静かな曲である。

その歌詞内容も、抽象的・感覚的で難解だと言われる当時のYesの曲の中では、比較的わかりやすく、曲調と同じようにアルバム全体の、ある種殺伐としたハードな世界から、平和で穏やかな世界へと聴く者を導いてくれるものとなっている。

主語は「we(わたしたち)」である。アルバム1曲目の大作「錯乱の扉(The Gate of Delirium)」は、『われわれは永遠に戦争しつづけなければならないのか?』という感情を歌ったもの(「イエス・ストーリー 形而上学の物語」ティム・モーズ著、シンコーミュージック、1998)と言われるが、この最終曲では、同じわれわれが本来到達すべき平和な世界、あるいはわれわれの到達を待っていてくれる至高の世界を物語ろうとしているかのようだ。

冒頭の1行は「sail down the river(舟で川を下る)」という表現に似て、「river(川)」よりイメージ的に小さい「stream(小川)」を下っていくという文章になっている。現在形であるから、ある意味われわれの在り方、あるいは人生を比喩的に述べていると言ってもいいかもしれない。「streams」と複数形なのは、われわれ一人一人が自分の「stream(小川)」を下っていくからなのかもしれない。

「stream」はやがて「bridge(橋)」のある場所へとたどり着き、「わたしたち」はそこで永遠に漂い続ける。そして「to be over(終ってしまうこと=終焉)を目にすることになるのだ。

ここまで読むと長い人生を歩み、やがて川が大海へと流れていくように、わたしたちは「stream(小川)」を流れ下って、ある橋のたもと「by the bridge」という終着点に至ると言っているように思える。「bridge」が単数形なので、その終着点には大きな橋が存在し、たどり着いた人々は、そのそばで漂い続けているとイメージしてみた。そこで目にする「to be over(終焉)」とは、人生で言えば「死」ということになるだろうか。

しかし確かに「It is over(もう終わりだ)」「The long, cold winter is over.(長くて寒い冬は終わった)」などのように「be over」は「終る」という意味で使われることが多いけれど、「over」には「越えて、「上方の、上級の、すぐれた」などの意味もある。作詞のジョン・アンダーソンが持つニューエイジ的な志向(もっと抽象的で感覚的だけど)からすれば、「to be over」は「超越すること、次の段階へ向うこと」というような意味そも含んで、終わりであるけれども始まりでもあるというニュアンスが感じられる。

実際次の連では「運に左右されるようなゲーム」や「あなたの夢を閉じ込めるドア」に苦しむのは止めようと「話者」は語りかける。物事をじっくり考えれば、時とともにあなたたちは癒されるのだと。それには考えたことによって自分の中に解き放たれた思考のバランスを取るのだと。そう、まるで一時的享楽や今の次元から上の次元へとステップアップさせようとしているかのように「話者」は説くのである。

第3連でも話者の示唆は続く。「こどものような魂を持った夢見る人」というのが、おそらく「わたしたち」の“本来あるべき姿・気づくべき姿”なのかもしれない。従って「dreamer」はマイナスイメージのある「夢想家」とはしなかった。むしろ前連にある「夢」をドアの向こうにしまい込むのをやめた人たちとして、肯定的に使われていると解釈した。

これまでの生き方の終わりは、新しい生き方の始まりでもある。夢を解放した人々は、「one journey(一つの旅路)」に出る。それはもう一度言い直されて「あらゆる光の中で求め見つけるもの(旅路)」である。それは真実の小道(pathway)、つまり本来あるべき生き方をしっかりと始める(open)ことから始まる。「away」は「遠くに」ではなく連続行動を示す「絶えず、どんどん、せっせと」というような意味でとらえた。

第4連からは、新しく始まる「one journey」へと話題がシフトする。夢をしまい込んでいた部屋のドアを開け放てたままでいられれば、すべての道が開かれる、というのは、第2連や第4連とも呼応する。そしてそうすることで本来歩むべき道を歩き回ることができるのだ。

最終連冒頭、結局(after all)自分を解放できた新しい旅路の果てに待っているのは、もしかすると依然として魂が何かに屈する状態であるかもしれないと、現実的な結末も示唆される。しかしまた同時に最後には(after all)「愛される用意がされている(ready to be loved)」ということを疑ってはならないとも言っている。

自分を解放し、新しい生き方を始め、その最後には愛に包まれた世界が待っていることを信じること。例え現実には何かに屈しなければならなくとも、そうした自分らしい生き方をすることが、最後には愛で迎えられることになるのだ、そう言っているように思える。

この「愛」とは神による大きく深い愛のようなものではないかと思う。つまりこの「after all」の時点こそが、本当の人生の終わり、つまり死であり、その時魂は愛に包まれて至福の時を迎えることができるのだ。

スティーヴ・ハウのバイオリン奏法によるギター、シタール、パトリック・モラーツの軽やかなエレクトリック・ピアノ、そしてジョン・アンダーソンの力強いボーカル。ゆったりとスタートし、疾走し始める中間部、荒々しいエレキギターにキラキラしたキーボードが絡む。

そうして突如入ってくるメロトロン。分厚いボーカルハーモニーやパトリック・モラーツのピッチベンドを活かしたしなやかなキーボードソロ。曲は次第に壮大さを増していき、最後の大団円に向って突き進んでいく。

後ろを振り返らず突き進んでいったYesの、一つの到達点、あるいは終焉(to be over)を示す曲であったのかもしれない。