2009年10月31日土曜日

「クジラに愛を」イエス

原題:Don't Kill the Whale







あなたは先頭で わたしが最後
あなたは切望し わたしは受け入れるよう求められる
わたしたちの最後の神の生き物を殺すことを
クジラを狩らないで

美しい光景の中で
わたしたちは多くを求めるのか
もし運命を諭し 真実に疎くなろうとしているのなら
クジラを殺さないで

クジラたちは喜び歌う
自分たちだけの場所を賛美する
愛に満ちた瞬間 その美徳故に彼らは死ぬだろう
クジラを殺さないで

もし時が許すなら
わたしたちは 裁くだろう
はかない存在に味方する新しい世代を追って
集ってきた全ての人々を
クジラを殺さないで

You're first I'm last
You're thirst I'm asked to justify
Killing our last heaven beast
Don't hunt the whale

In beauty vision
Do we offer much
If we reason with destiny, gonna lose our touch
Don't kill the whale

Rejoice they sing
They worship their own space
In a moment of love, they will die for their grace
Don't kill the whale

If time will allow
We will judge all who came
In the wake of our new age to stand for the frail
Don't kill the whale

【メモ】
全イエス・ファン、否プログレッシヴ・ロック・ファンを奈落の底に突き落とした一曲。現実世界を越えた超絶空間を歌詞と演奏によって描き出してきたイエス、プログレッシヴ・ロックの牽引者として前人未到の世界を突き進んでいたイエス。そのイエスが環境保護、それも捕鯨反対のプロテスト・ソングか、と。それをシングル盤でも発売するのか、と。

特に捕鯨国日本の人間としては、当時の環境保護団体グリーンピースなどの、強引な捕鯨妨害活動などみに感じられた「自分たちが正しい」という思い込みによる「英雄気取り」な行動に腹立たしさを感じていた時期でもあった。

まぁ犬を食する文化もあるわけだから、西洋人にとってクジラを殺し、食することは、日本人に取って犬を食する行為に似た野蛮で残酷な行為として、大きな違和感、拒絶感を感じずにはおれなかったということだろう。

まして「モービー・ディック」的な、くじら=神といったイメージすら与えられた世界最大のほ乳類なわけだし。事実、歌詞の中にも「last heaven beast(最後の神の生き物)」という表現がある。ニュー・エイジ界を見てもわかるように、クジラは神聖な生き物の象徴なのである。
 
確かに一撃必殺ではなく、モリで突いて次第にクジラが弱って死に至らしめるという、じわじわ殺す感じがする捕鯨の仕方自体が、残酷なイメージに拍車をかけたことも想像に難くない。感情的に反発するのも無理からぬことかもしれない。

でも、それが日本の文化なんだよと、若き怒りと大いなる反発を感じつつ聴いたのがこの曲である。曲としてキャッチーで聴き易いところがまた憎らしかった。思わず聴いてしまうのだ、この曲。

しかし大事な点がある。この曲は確かに「クジラを殺さないで」と言っているメッセージ・ソングなのだけれど、殺す側を痛烈に批判したり非難したりはしていないのだ。だからプロテスト・ソング的な嫌みや痛みを感じずに聴くことができるのだ。

それはやはりある意味ジョン・アンダーソン的であるとも言えるし、イエス的であるとも言える部分なのかもしれない。 いやむしろ、この「批判、非難をしない」ということこそが、イエス・サウンドの核にある部分なのかもしれない。

ちなみに「Tormato」は今では愛聴盤。この、ポップ感覚がありながら、80年代的騒々しさもなく、90年代以降のジョン・アンダーソンのソロアルバム的なものとも違い、各メンバーがリラックスした中で、まとまりのある演奏を繰り広げている点が良いのである。

2009年10月28日水曜日

「堕落天使」キング・クリムゾン

原題:Fallen Angel






弟が生まれた時に流した涙
その時から孤独ではなくなった
ナイフでやり合う危険にさらされ続けた16年間
不思議なことになぜ彼の命なんだオレのじゃなくて

空を背景にウエストサイドの建物が泣いている
墜落天使が死んでしまうのだ
はした金のために命を危険にさらして

街のストリートで過ごすという人生は
オレたちのような人間をつくりあげる
一瞬のさらに10分の1の速さで飛び出しナイフは刃を突き出す
車へ戻った方が身のためだ

寒々としたニューヨーク・シティの雪の降り積もった裏通り
彼の血で汚れ 全ては狂ってしまった
気持ちが悪く疲れ果て憂うつで不愉快でイライラした状態
こんなことがいつまで続くと言うのか

堕落天使
堕落天使

空を背景にウエストサイドの建物が
死に行く堕落天使のために泣いている
この街で命の火が消えようとしている

堕落天使…


Tears of joy at the birth of a brother
Never alone from this time
Sixteen years through knife fights and danger
Strangely why his life and not mine

West side skyline crying
Fallen angel dying
Risk a life to make a dime

Lifetimes spent on the streets of a city
Make us the people we are
Switchblade stings in one tenth of a moment
Better get back to the car

Snow white side streets of cold New York City
Stained with his blood it all went wrong
Sick and tired blue wicked and wild
God only knows for how long

Fallen angel
Fallen angel
West side skyline
Crying for an angel dying
Life expiring in the city

Fallen angel ...


【メモ】
1970年代キング・クリムゾンの最終アルバム「Red(レッド)」の2曲目、ボーカル曲としては最初の曲にあたる「Fallen Angel」。通常「fallen angel」は「堕天使(だてんし)」と訳されるが、ブックレットでは「堕落天使」と訳されている。


「fallen angel(堕天使)」とは、旧約聖書にある、もともとは天使の身でありながら、高慢、嫉妬、自由意志などの理由で、天界を追放(堕天:天から墜ちる)された者のこと。

ここでは話者がその誕生を「涙を流して喜んだ」 弟と、喧嘩ばかりの若者の世界に共に生きて、弟がニューヨークの裏通りでジャックナイフによって刺され、死んでいく姿を「天国」から「地獄」へと墜ちた「堕天使」にダブらせているのだろう。

「堕天使」=「悪魔」と解釈してしまう場合もあるようだが、少なくともこの詩においては、弟は「天使」なのである。「街のストリートで過ごすという人生」故に、彼は本来の天使でいられなかった。はした金に命をかけるような生活に身をやつすしか無かった。

聖書の「堕天使」が「天使」自身に問題があり、天界を追われるのとは違い、弟はなす術も無く、この若者のストリート環境の中で、「堕天使」とならざるを得なかった。どこか「ウエストサイド・ストーリー」的な、少年ギャング団抗争の犠牲者的なイメージが浮かぶ。

殺伐とした生き方。それでも大切だった弟。なぜ「オレ」の命ではなく弟の命が奪われることになったのか、苦悩する「オレ」。「オレ」を孤独から救ってくれていた最愛の弟。「オレ」には「天使」であり続けた弟。

冷酷で、寒々しく、血にまみれた光景とともに、そんな切ない思いが伝わってくる詩である。「オレ」は車に戻り早く現場から立ち去りたいと思う。そう思いながら、空を切り取るニューヨークの建物の影に目をやりながら、街全体が悲しみに浸っていると感じる。弟の死を悲しんでくれていると感じる。それは弟が「堕天使」本来の意味とは異なり、本質的には今でも「天使」であったからであろう。

「Fallen Angel(堕天使)」とは、少年同士の小競り合いの結果、ナイフで刺されて死ぬなんて最低な人生を送らねばならなかった、つまり地獄へ堕ちなければならなかった弟という天使を歌った歌なのだ。

「混乱こそわが墓碑銘」と歌ったデビューアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」のような、抽象的で装飾的な詩とは異なり、この最後のアルバムにおいて、よりリアルな、当時の裏の暗き世界、暗きムードを切り取って見せた曲。

叙情的な悲哀に満ちたメロディー、ドラマティックなコーラス、コルネット、オーボエ、トランペット、ギターのめくるめくも痛々しさの宿るサウンド。そして細かく切り込んでくるドラムス。名曲である。

2009年10月11日日曜日

「水の精」キング・クリムゾン

 原題:Lady of the Dancing Water








「ゆらめく水の乙女」

日向で身体を伸ばすライオンのようなあなたの髪の中の草は 
絶え間なくあなたの唇を舌で湿らしていた。
ワインを注ぎながら あなたの目はわたしの目を籠に綴じ込め 輝かせた。
あなたの顔に触れると わたしの指は無意識に動き回り 悟った。
あなたをゆらめく水の女神と呼ぼう。

あぁ 美しきゆらめく水の乙女よ。

あなたがわたしを横たえた焚き火へと落とされた 茶色の秋の葉が
ちょうどわたしの現在の日々がそうであるように 燃えて静かに灰になる。
わたしはあなたを今でも感じる その瞳は常に  輝き
思い出される時は苦く 大地と花々は      流れ去る。
さようなら  ゆらめく水の乙女よ。

Grass in your hair stretched like a lion in the sun
Restlessly turned moistened your mouth with your tongue.
Pouring my wine your eyes caged mine           glowing
Touching your face my finger strayed               knowing.
I called you lady of the dancing water.

Oh lovely lady of the dancing water.

Blown autumn leaves shed to the fire where you laid me
Burn slow to ash just as my days now seem to be.
I feel you still always your eyes                        glowing
Remembered hours salt, earth and flowers     flowing.
Farewell my lady of the dancing water.


【メモ】
King Crimsonのサードアルバム「リザード(Lizard)」から、LPではA面最後となるアコースティックな小曲。作詞はおなじみ当時の作詞&ライティング担当のメンバーだったピート・シンフィールド。

メル・コリンズの美しくきらびやかなフルートから始まる静かな曲。ボーカルのボズ・バレルも柔らかな声で歌う。ロバート・フィリップもアコースティック・ギターを弾く。大曲「Lizard」が始まる前の静けさ。3分にも満たない夢のような曲だ。

「あなた」は「わたし」が恋した女性なのだろう。その美しさはゆらめく水の乙女、あるいは女神(the lady of the dancing water)のよう。つまり活き活きと生気にあふれキラキラと眩く輝いている女性なのだ。

髪の毛はまるで水の中でたゆたうようで、水辺の草のように色の変わったように見える部分は太陽の下でゆったりとしているライオンのたてがみを思わせるように豊かだったのだろうか。ここでは「Grass」が主語で、次の行の「turned」が動詞だと考えられるから、その豊かな髪の毛が口元にもかかり、まるで舌で唇を潤しているような光景が浮かぶ。ちょっとエロチックで誘惑的なイメージだ。

しかし注意したいのは第1連は全て過去形だということ。現実には「わたし」は「あなた」とワインを飲んでくつろいでいるのか、あるいは食事をしているのか、そにかくそうした事が過去の事としてあったのを思い出しているのだ。

その時「わたし」の指は「あたな」の顔に触れ、手を離すことができなくなり、そしてゆらめく水の乙女(the lady of the dancing water)という言葉が浮かぶ。

後半。「わたし」は川で溺れたところを助けられたかのように「あなた」に暖炉の近くへと運ばれる。そこで暖炉にくべられている枯れ葉は静かに灰になっていく。それはまさに自分自身の今の姿を思わせる。

「あなた」と「わたし」の出会いは、水で溺れた者と助けた者のような一時だけの関係。そして「わたし」の思いとは違い「あなた」は事が終わると立ち去っていった。残された「わたし」は暖炉で燃える葉を思いながら、自分の空しい日々に思いをはせる。

第1連の「grass」のみずみずしいイメージと好対照な「leaves(leafの複数形)」の暗さ。それは「わたし」にとって「あなた」の存在がほんの一時だけだったこととも呼応する。「Oh Lovely Lady of the dancing water」と讃え燃え上がる「わたし」の気持ち、そして「Farewell my lady of the dancing water」と悲しみつつ別れを受け入れようとする今の気持ち。

「my lady」と「the」ではなく「my」を使っているところに、未だ熱き思いを持ち続けている「わたし」の思いが垣間見えるようである。

「Lizard」自体がまだまだ正当な評価を受けているとは言いがたい。いわゆる形式的なプログレッシヴ・ロックの決まり事など何もなく、ロックとフォークとクラシックとジャズの間を自然に行き来するアルバムタイトル曲「Lizard」の凄さはまさに唯一無二な、ここだけにしかない世界だ。

そんなアルバムにひそやかに咲いている一輪の幻想的な花のような曲である。