2010年3月19日金曜日

「7月、8月、9月(黒)」アレア

原題:Luglio, agosto, settmbre (nero)

■「Arbeit Macht Frei
   (邦題は「自 由への叫び」)収録






「7月、8月、(黒い)9月」

愛する人よ
平和とともに愛を込めた花束を
あなたの足下へ置きました
平和とともに
平和とともに私は血の海をせき止めました
あなたのために
怒りを忘れて下さい
痛みを忘れて下さい
武器を忘れて下さい
武器を忘れてここで
私と暮らしましょう 愛する人よ
平和の毛布に包まれて
私はあなたに歌ってほしいの、わたしの目が放つ最愛の光のことを
そしてあなたの歌は平和をもたらすでしょう
世界中の人々に聞かせましょう
愛する人よ そして共にこう言うのです:
怒りを忘れて下さい
痛みを忘れて下さい
武器を忘れて下さい
武器を忘れてここで
平和に暮らしましょう
 
世界を遊び道具にして、バラバラにしてしまい
太陽がむりやり老人にしてしまった子供たち

あなたたちの現実のために僕がが力づくで
黙殺の申し合わせに戦いをいどむとしても私が悪いんじゃない
たぶんいつの日にか私たちは
人間性を持ちながら血の海に溺れ死ぬことの意味を
知ることになるだろう

ほとんど違いのない 変色した人々
私の怒りはニュースに出ないことを読み上げ
痛みのすべてを過去へとさかのぼって読み上げていく
そして死にたくないと思う人々に向って歌うんだ

あたなたちの目に世界に問題が無いように映っても
全ての物事の本質を探すのだ
あなたたちの現実のために私が力づくで
戦争に人間性を持ち込んだとしても私が悪いんじゃない

 
JULY, AUGUST, (BLACK) SEPTEMBER

My love
With peace I have placed loving flowers
at your feet
With peace
With peace I stopped the seas of blood
for you
Forget anger
Forget pain
Forget your weapons
Forget your weapons and come
Come and live with me my love
Under a blanket of peace
I want you to sing, beloved light of my eyes
And your song will be for peace
let the world hear,
my beloved and say:
Forget anger
Forget pain
Forget your weapons
Forget your weapons and come
And live in peace

Playing with the world, leaving it in pieces
Children that the sun has reduced to old age

It's not my fault if your reality
forces me to fight your conspiracy of silence
Maybe one day we will know what it means
to drown in blood with humanity

Discoloured people, almost all the same
my anger reads above the news
reads into the past all my pain
sing my people that don't want to die

When you see the world without problems
seek the essence of all things
It's not my fault if your reality
Forces me to make war with humanity

(英訳:Ale Fernandez)

 
【メモ】
「Antiwar Songs」(反戦歌)というサイトで、イタリア屈指のバンドArea(アレア)のファースト・アルバム冒頭の曲「Luglio, agosto, settmbre (nero)」を、Ale Fernandezという方が英訳されているのを見つけたので、ここで使用させていただいた。英訳したAle氏に心より感謝申し上げたい。

さて時系列でいけば最初のArea体験となったこの名曲。冒頭、女性の声でアラビア語の朗読が入る。それが斜体部分である。
 
戦争に向おうとする高揚した恋人の心を鎮め、静かにそれを思いとどまらせ、一緒に、平和に暮らそうという内容の語りかけである。朗読者が女性なので、聞き手は、呼びかけらている人物が男性とイメージすることになる。「武器を捨ててわたしと一緒に平和に暮らしましょう」という、シンプルだけれど切々としたメッセージが美しい。美しくも悲しい。それはきっと男性がその言葉に耳を傾けてくれたかどうかがわからないからだ。

そして力強い男性的な歌が始まる。「私」は怒っている。「世界を遊び道具にして」勝手に「バラバラにして」しまった人間たち。大人の姿はしているが心は自分勝手な子どものままでいる人間たち。つまり戦争を引き起こす「権力者たち」に。クラシックを基盤とする西欧音楽とは異質な強烈なインパクトのボーカル、疾走する変拍子、荒々しくも非常にテクニカルなアンサンブル。

この詩には「私」と「あなたたち」と「私たち」が出てくる。「あなたたち」 は「old age(歳を取った)」「children(こどもたち」、つまり「権力者たち」と取り、「私」と「私たち」は、彼らに翻弄され血の海で死んでいく一般市民と解した。

「私」は「あなたたち」が黙って勝手に取り決めをしたとしても、それが引き起こした現実を考えれば、決して見過ごすことはしない。「私」に何か言わないでくれ、悪いのは「あなたたち」なのだから。「私たち」は戦争を実感としてわかっていない。勝ったとか負けたとかいった抽象的な空虚な言葉の裏には、血の海の中で溺れ死んでいく兵士がいる。それも機械でも道具でもなく、人間として死んでいく人たちが。

「Discoloured people, almost all the same」は、取りあえず文字通りに訳しておいた。しかしこれは「死体」のことではないかと思う。戦場で血の海に溺れた死体。それはもう個別の人間ではなく、「ほとんど違いのない 変色した人々」なのではないか。

「above the news」はニュースの上の方、つまり紙面には載らない事と解釈した。戦争の悲惨さ、苦しみや悲しみ、そういったものを「私」は読み上げ、過去に向って読み進んでいく。そして死にたいなんて思うはずもない人々に「戦争=死」であることを伝えようと歌うのだ。

「あなたがた」が世界に問題はないと思っていたとしても、物事の本質を探してみろと「私」は言う。戦争を勝ち負けの問題だけでしか見ない相手に対し、それならば「私」はその本質として、「人間性」を持ち込むぞと言っている。ここでも「戦争=血みどろになって死ぬ事」という、人として戦うことの凄惨さ、そして待ち構えている死という現実を、広く知らしめてやるぞということだろう。

冒頭の女性(エジプト人と言われる)の静かな平和へ誘なう語りとは対照的に、エジプト生まれのギリシャ人というボーカルのデメトリオ・ストラトスは、 圧倒的な迫力とバルカンミュージックなどの影響を受けた非西欧的歌唱法で、男性的に、そして戦闘的に歌う。しかし目指すところは同じなのだ。人間性の尊重、そして平和。

ナチの収容所に掲げられたスローガン「Arbeit Machit Frei(働けば自由になる)」をアルバムタイトルとし、内ジャケットではメンバーがアラブ・ゲリラ風な扮装をしていたりと、このアルバムはジャケットからしてすでに過激だ。

当時イタリアの知識人や学生たちは権力に抗する手段として共産党を支持していた。Areaはこうした過激で高度な音楽性とともに、社会や政治に対する眼差しを歌詞に込めていたことで、左翼運動の一角として共産党集会などでも演奏を行なったという。ライヴアルバム「Are(A)zione」では、共産主義の革命歌として有名な「インター」も取り上げている。

ちなみにタイトルの「7月、8月、(黒い)9月」とは、ミュンヘンオリンピック事件(1972年のミュンヘンオリンピックで、オリンピック開催期間中にイスラエルの選手11人が殺された事件)を起こした事でも有名な、パレスチナの過激派組織の名前「Black September(黒い9月)」を暗示しているという(「ArchAngel vol.2」ディスクユニオン、1996年)。このデビューアルバムは事件の翌年、1973年に発表されている。

アラビア語&イタリア語→英語→日本語という流れの中で、意味の取り違えや、解釈のズレが生じている事は想像に難くないが、歌詞のイメージの一端を覗いてもらえたとしたら、うれしいです。
  

2010年3月9日火曜日

「風に語りて」キング・クリムゾン

原題:I Talk to the Wind







生真面目な男が遅れてやって来た男に言った
今までどこにいたんだい
僕はここにもあそこにも
その間のどこにでもいたんだよ

僕は風に語りかける
僕の言葉はすべてさらわれてしまう
僕は風に語りかける
風には聞こえない
風には聞くことができないのだ

僕は外側にいて内側を覗いている
いったい何が見えるんだろう
ひどい混乱と幻滅が
僕を取り巻いている

君は僕を支配することもないし
僕に感銘を与えることもない
ただ僕の心をかき乱すだけだ
君は僕に教えることも導くこともできない
ただ僕の時間を使い果たすだけだ

僕は風に語りかける
僕の言葉はすべてさらわれてしまう
僕は風に語りかける
風には聞こえない
風には聞くことができないのだ


Said the straight man to the late man
Where have you been
I've been here and I've been there
And I've been in between.

I talk to the wind
My words are all carried away
I talk to the wind
The wind does not hear
The wind cannot hear.

I'm on the outside looking inside
What do I see
Much confusion, disillusion
All around me.

You don't possess me
Don't impress me
Just upset my mind
Can't instruct me or conduct me
Just use up my time

I talk to the wind
My words are all carried away
I talk to the wind
The wind does not hear
The wind cannot hear. 

【コメント】
名盤中の名盤「クリムゾン・キングの宮殿」より、強烈なインパクトを持つ「21st Schizoid man(21世紀のスキッツォイドマン」)に続く曲「I Talk to the Wind(風に語りて)」である。イコライジングされたボーカルと爆発的なパワーを持つアルバムトップの曲から一転、フォークソング的な穏やかな曲。動から静への見事な展開だ。
 
ピート・シンフィールド作詞のこの曲も、他の曲に比べれば単純な言葉やイメージが使われているが、やはり一筋縄ではいかない。フォークソング的なアコースティックな曲だが、イアン・マクドナルドのフルートやクラリネット、爪弾かれる幻想的なギター、繊細に叩き続けるマイケル・ジャイルズのドラム、そしてつぶやくようなグレッグ・レイクのボーカル。夢幻的なイメージとともに、非常に統制された美しさがある。
 
さてその歌詞であるが、ここには「I(僕)」と「You(君)」、そして「straight man」と「late man」が登場する。実際の歌では「Said straight man...」の第1連が最後にまた繰り返されるので、全体として視点や物語が展開していくというよりは、情景あるいは心象風景の描写というイメージが強い。
 
まず第1連。「straight man」には元来「真面目役、喜劇役者の引き立て役、ぼけ役」という意味がある。「late man」には特に決まった意味はない。しかし対照的に描かれていると考えれば、生真面目な人間と、自由奔放な人間と解することもできる。
 
「straight man」は「straight(真っすぐな)」というくらいだから、決まった道、あるいは決められた道を黙々と歩いているのだろう。それに比べ「late man」は「late(遅れてきた)」ということだから、後から姿を見せたのであろう。しかし「late man」は言う。「僕はここにもあそこにも、その間にもずっといたんだよ」と。
  
「I've been...」は現在完了形で、「継続(ずっと〜していて、今もし続けている)」状態を示す表現ととらえることも、「経験(〜に行ったことがある、〜にいたことがある)ととらえることもできる。前者なら「僕はここにもあそこにも、その間にもずっと存在しているんだよ。」という感じか。「straight man」には「late」と思えるかもしれないが、実際はそんなことはないのだと。
  
第二連で「I(僕)」が出てくるので、その瞬間にこの第一連は「僕」の視点から第三者的に見た情景描写のように映る。つまり「straight man」と「late man」とのやりとりを見ている「僕」が存在するのだ。

時間や空間にしばられていながら、それを受け入れているような「straight man」と、時空を超越した「late man」。しかしここでは両者に良い悪いという価値がつけられているようではなく、もう少し抽象的で、「straight man」が固定したイメージのある存在、「late man」がイメージが固定されない存在といった感じがする。 「僕」の視線には「straight man」に対して「late man」に憧れているとか、より上位の存在であるといった思いは感じられない。それはなぜか。

「straight man」と「late man」も正反対な生き方の象徴のようでいて、どちらも自分に自信を持っている点で共通している。「straight man」は文字通り、何かの価値観に基づいた実直な生き方をイメージさせるし、「late man」は「僕は〜にいたんだよ」と自己主張できる力を持っている。
 
しかし「僕」は「straight man」でも「late man」でもない。僕の居場所はそうした人々の中にはないのだ。第三連で「僕」は内省する。「いったい何が見えるんだろう」という問いへの答えはない。「ひどい混乱と幻滅」は、内省している「僕」を「取り巻いている」 状況なのだ。

つまり「僕」は自分自身は責めていない。あるいは自分自身を貶めていない。ただこの混乱させる状況を何とかして欲しいと思っている。
 
第四連で唐突に「you(君)」が登場する。友人か恋人か、あるいは時の為政者か、いずれにしても自分に関わりを持っている存在だ。しかし「君」も僕の心をかき乱し時間を使い果たすのみである。ここで「君」が出来ないことに目をやると「支配し」「感銘を与え」「教え」「導く」こと。つまり「混乱と幻滅」という状況から「僕」を救うこと。
 
つまり逆説的に「僕」は自分の生きる方向や在り方を決めて欲しがっているとも言える。しかしそれは満たされない。不満と不安だけが残る。ちなみに「you」は複数形も「you」なので「君たち」と訳して、「僕」意外の人々全体、あるいは社会そのものを指していると解釈することもできるかもしれない。いずれにしても「僕」にコミットしている人間(達)を、拒絶しているのである。そして混乱の中で「僕」は絶対的な孤独にいるのだ。

つまり「僕」は自分が「混乱と幻滅」に取り巻かれていると感じているが、そうした状況をもたらした原因を追求したり否定したり非難することで、新しい自分らしさを手に入れようとしているのではない。その「混乱と幻滅」の中で、何もできないまま一人弧度のく中で立ち尽くしているのである。しかしそれは穏やかで美しい曲調と相まって、自暴自棄なものというよりは、なすすべもない状態なのだ。

第1連では三人称的関係を、第3連では一人称的内省を、そして第4連では二人称的関係を述べながら、そのどこにも「僕」の居場所はない。

「混乱と幻滅」の原因はわからない。しかし「僕」は「straight man」にも「late man」にもなれない。彼らをを見ながら、どちらかに肩入れするでも無く、会話に興味をそそられるでもないかのように「風に語りかける」。僕」には「風」に語りかけることしかできないのかもしれない。あるいは語りか ける相手は「風」しかいないのだろう。

 そして「風」もまた「僕」の言葉を聞こうとはしない。つまり「僕」は絶対的な孤独の中にいるのだ。「you」は何の助けにもならない。「僕」は人とのコミュニケートからも疎外されている。「僕」はいったいどうすればいいのだ?混乱と幻滅しか見えない孤独の中で「僕」は静かに途方に暮れている。最終行に「The wind cannot hear.」とあるように、「答えられない」とわかっている風に、敢えて語りかけるしかない孤独の中で。