「鳥たち(翼のある友たち)」
何を飲む?さぁ君に乾杯
そしてかつて空を飛び回った鳥たちすべてに乾杯だ。
陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった。
もし僕らがここから自力で出ることができるのなら今が旅立つ時だ
太陽がまだ輝いているうちに
例え僕らが今ちょうど飛ぶ練習をしているところだとしても
僕らは何とかやっていけるだろう、少しずつ少しずつ。
すべてを死なせたのは毒だったのか?
それとも計画だけ立てておきながら助けようとしなかった人間だったのか?
指導すべき者として選ばれた少数の人間は嘘をつくことを選んだに違いない
僕らの知っていることを他の人たちに知らせるなら今がその時だ
平坦な道ではない
例え僕らがそのゲームでは新米であったとしても
もし僕らが失敗したとしても責めを負う人なんているのか?
もし僕らがここから自力で出ることができるのなら今が旅立つ時だ
太陽がまだ輝いているうちに
例え僕らがそのゲームでは新米であったとしても
もし僕らが失敗したとしても責めを負う人なんているのか?
何を飲む?さぁ君に乾杯
そしてかつて空を飛び回った鳥たちすべてに乾杯だ。
陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった。
What's your poison? Well here's mud in your eye
And here's to all our feathered friends that used to fly.
Gone is all motion, on land and in ocean and sky.
It's time to leave if we can heave ourselves away from here
While the sun is still burning
Even though we're just learning to fly
We can get by, by and by.
Was it poison that made everything die?
Or was it man who planned to help, but didn't try?
The few that were chosen to lead must have chosen to lie.
It's time to go if we're to show the others what we know.
The route isn't easy.
Even though we're just new to the game
Who's left to blame if we fail?
It's time to leave if we can heave ourselves away from here.
While the sun is still burning.
Even though we're just new to the game.
Who's left to blame if we fail.
What's you're poison? Well here's mud in your eye.
Here's to all our feathered friends that used to fly.
Gone is all motion on land and in ocean and sky.
【メモ】
ツイン・キーボードが大きな特徴であるイギリスのバンドGreenslade(グリーンスレイド)のデビューアルバムから、冒頭の1曲である。
1stアルバム全7曲中3曲がインストゥルメンタルとなっていることから、インストゥルメンタル主体の超絶技巧キーボードアルバムだと期待すると大きく外れる。むしろバランス良く歌と演奏が組み合わされたボーカル曲が持つ世界がメインであり、インストゥルメンタル曲もその世界の中に置かれている感じだ。
プログレッシヴ・ロックの範疇に入れられることが多いが、実験的な試みを押し進めていくタイプでもなく、二人のキーボード奏者のスリリングな掛け合いを味わったりするテクニカルなタイプでもない。ポップセンスといかにもイギリス的な渋いキーボードの音が全体を包み込む、奇をてらったところの無い作風が逆に魅力な作品だ。
さてその最初の曲ではいったい何が歌われているのだろう。
まずタイトルであるが、「Feathered Friends」とは直訳すれば「翼の生えた友達」ということだけれど、口語的表現として「鳥(鳥類)」を示す言葉である。しかし歌詞の内容を見ていくと、「鳥」というイメージに託して、今未知の世界へ飛び立とうとする「僕ら」のことを歌っていることがわかる。その意味では「翼のある友」という日本語訳も決して的外れではない。
「What's your poison?」は口語で「何を飲む?」という意味で、ここでは「毒」ということではない。「poison」は「酒」のこと。次の「Here's mud in your eye(気味の健康を祝して乾杯!)」につながる言葉である。乾杯するのは「君」と「僕」、そして「かつて空を飛び回った鳥たちすべて」である。つまり「君」も「僕」も「かつて空を飛び回った鳥たち」と同じ存在として並べられているということだ。
第1連最終行で「陸にも海にも空にも動くものはいなくなってしまった」とあることから、「かつて」の「鳥」たちの後を継ぐべく、「鳥」たちへ敬意を払いつつ「君」と「僕」はその後を継ごうとしているかのようである。
第2連でそれはより明確になる。「僕らが自力でここから出ることができるのなら、今が旅立つ時だ」と、これから自分たちの力で、自分たちの意志で、行動を起こそうとしている様子がうかがえる。「leave」は「旅立つ」と訳したが、基本的には「今いる場所から立ち去る」という意味合いが強い言葉だ。つまり何か目標や目的に向って邁進するというよりは、現状を脱したいという気持ちが強く感じられる表現なのだ。
「太陽が輝いているうちに」とは、自分たちが旅立つことに意味があるうちに、つまりそこにまだ希望が感じられるうちに、という感じだろうか。僕らはまだ十分に飛ぶ練習をし終わったわけではない。でも何とかなる。例え少しずつでも何とか飛び続けていけるようになる。待っていてはだめなのだ、行動を起こすこと、あるいは行動を起こしながら自分たちも成長していくのである。
鳥(feathered friends)の巣立ちに例えて、自分たちの新たな旅立ち、あるいは現状を変えようとする行動への第一歩を今踏み出そうとしている決意が、ここには示されている。
第3連では、ではなぜ「僕ら」は行動を起こそうとしているのかが語られる。「すべてを死なせたのは毒だったのか?」と問いかける。ここで冒頭の「poison」が再び使われるが、今度は「毒」であろう。同じ単語を並べながら異なる意味で使っている巧みな表現だ。
「すべて」とは、今はどこにもいなくなってしまった鳥たちを指すと考えられる。それは自由に人間らしく夢を追いながら生活していた人々のことを指しているように思える。そうした人々は今はいなくなってしまったのだ。それは「毒」せいなのか?それとも「計画しながら実際には助けなかった人間のせいなのか?」。「毒」も「人間」が盛ったものかもしれない。とすれば「殺そうとして殺した」ことになるし、「助けようと計画しながら助けなかった」のは、言わば「見殺し」にしたということになる。
それが具体的にどのような状況を示しているのかは、歌詞の中だけではわからない。「陸・海・空」と並べられると、戦争がイメージされる。時はまさにベトナム戦争の真っただ中だ。イギリスは直接参戦はしていないが、ジョン・レノンによる反戦活動など、イギリスにおいても若者の間での反戦意識は高かったと思われる。
しかしまた戦争に限定しているわけでもない。むしろそれをも含めた現状、今の社会に対する反発であると広く取った方が良いかもしれない。それは為政者たちの愚行へ向けられた非難からも感じられる。「指導すべき者として選ばれた少数の人間は嘘をつくことを選んだに違いない」とは、簡単に言えば「政治家は嘘つきだった」ということである。
第4連では「僕ら」の行動の中身が示唆される。それは「僕らの知っていることを、まだ知らぬ他の人たちに示し伝えること」である。「反戦運動」もそうであるが、そうした政治的意識をあまり持っていなかった人たちに対し、自分たちが率先して政治的腐敗(嘘をつく為政者)や社会的衰退(飛ぶものはなにもいなくなった)を知らしめていこうということであろう。
しかし「The route isn't easy(その道は平坦なものではない)」。「僕ら」はまだ飛ぶことすら満足にできないのだ。あるいはそうしたゲーム(政治的活動)には新米(未経験)なのだ。
続く「Who's left to blame if we fail?(もし僕らが失敗したとしたら、誰がその責めを負うのだろう?)」という文は、実際に責めを負うことになる人が誰かを問うているわけではないと解釈した。つまり反語法である。「僕らが失敗したとしても、誰がその責めを負うというのか?誰も責められはしないのだ。」ということだ。
続く「Who's left to blame if we fail?(もし僕らが失敗したとしたら、誰がその責めを負うのだろう?)」という文は、実際に責めを負うことになる人が誰かを問うているわけではないと解釈した。つまり反語法である。「僕らが失敗したとしても、誰がその責めを負うというのか?誰も責められはしないのだ。」ということだ。
つまり、「僕ら」が起こそうとしている行動は、例え失敗に終わったとしても、意義のある行動、しなければならない必要な行動なのだという確信を「僕」は持っているのだ。失敗を気にしたり心配する必要はない。「僕ら」のやろうとしていることは正しいことなのだから。ここからは、現状を変えるためにとにかくまず自分から行動を始めなければいけないという強い意志が感じられるのである。
この歌からは、「(真実を)知っている」若者である「僕たち」が、それを暴き社会を変えていこうと行動を起こすにあたっての“出陣式”にも似た場面が目に浮かぶ。「僕ら」は先陣たちに敬意を表しつつ、自分たちが開こうとしている未来に向かって「乾杯」しているのである。しかしそれが単なる体制批判ではなく希望を胸に行動を起こす「僕ら」に焦点を当てていることで、前向きな力を持った曲になっていると言えよう。
自分たちが行動を起こすことで、社会や世界は変えることができると思えた時代、あるいはそうした考え方が大きなうねりとなった時代。そんな1970年代前後における、純粋でかつ無謀であったが熱い思いに溢れていた若者らしい歌詞である。ちなみにアルバム発表は1973年のことだ。