2009年12月21日月曜日

「ラメント」キング・クリムゾン

原題:Lament


Starless and Bible Black
(暗黒の世界)」収録





僕は君にどうやったかを示そうとしたと思う
僕はこのギターで群衆を魅惑したものさ
すると実業家たちは拍手喝采し
新しい太い葉巻の口を切った
出版社たちはニュースを広め
僕の音楽をいたるところで出版したんだ
そしてブルースを演奏していた少年だちは
皆ボトルネック奏法で僕のフレーズを練習しはじめたんだよ

でも泡ははじけてしまったようだね
もちろんわかるだろ そんな時代もあったって話さ
一行ごとに詩心に満ちたラブソングが
僕の頭の中で集まり
屈強な男たちが必死にドアを押さえ
その間に僕は仲間とあの時代を駆け抜け
すでに汚れたフロアーを踏み鳴らしていた群衆を前に
ロックンロールのステージを歩き回った そんな時代

電話をかけてくれてる男に感謝しよう
そしてもし彼に時間があるのなら
僕は問題点をもう一度説明しよう
そして貸付け総額を提案しよう
10%じゃ今なら冗談でしかない
たぶん30%、35%でもいいかも
僕の父親が脳卒中になったと言ってやろう
今もそのはず、生きていればの話だけれど

僕は君の僕を見る目が好きだ
君は目に見えないとても奥深いところで笑っているんだろう
僕は僕のチャンスを得て君は君のチャンスを得た
君は僕の船の乗組員となり僕らは潮流から外れてしまった
僕は音楽ってものが好きなんだ
それをきちんとプレイできる凄いヤツらはほんの一握りだけだけど
音楽にノッてつま先が動き出すのが好きだ
一晩中ダンスしに行きたくなったら迷わず言ってくれよ


I guess I tried to show you how
I'd take the crowd with my guitar
And business men would clap their hands
And clip another fat cigar
And publishers would spread the news
And print my music far and wide
And all the kids who played the blues
Would learn my licks with a bottle neck slide

But now it seems the bubble's burst
Although you know there was a time
When love songs gathered in my head
With poetry in every line
And strong men strove to hold the doors
While with my friends I passed the age
When people stomped on dirty floors
Before I trod the rock'n'roll stage

I'll thank the man who's on the 'phone
And if he has the time to spend
The problem I'll explain once more
And indicate a sum to lend
That ten percent is now a joke
Maybe thirty, even thirty-five
I'll say my daddy's had a stroke
He'd have one now, if he only was alive

I like the way you look at me
You're laughing too down there inside
I took my chance and you took yours
You crewed my ship, we missed the tide
I like the way the music goes
There's a few good guys who can play it right
I like the way it moves my toes
Just say when you want to go and dance all night...


【メモ】
1973年の「太陽と戦慄」から始動した新生キング・クリムゾンの2枚目である「暗黒の世界(Starless and Bible Black)」から「Lament(嘆き)」である。前期クリムゾンの時代がかった歌世界の影響か、邦題が「人々の嘆き」となっているが、内容は極めて個人的な、ブームの去ったロックバンドの話である。

第1連でバンドのメンバーであった「話者」は、「君」に話をする。「僕のギター」があれば群衆も、実業家も、出版業界も話題にし、付いてきてくれた。少年たちも、それまでのブルースを辞めて、ロックンロールな「僕のギター」をこぞって真似するようになったものさと。ここでの「would」は、過去に置いて習慣的に繰り返されたことがらを示す「よく…したものさ」という表現と取った。

第2連で、しかし文字通りバブルははじけ、バンドのブームは去った現在の状況が語られる。でも僕にも才気に満ち、仲間と共にロックンロールで観衆と燃え上がった日々は確かにあったんだけれど。

つまりここまでは回想である。過去となってしまった華やかな日々のことである。

そして現実的な問題を抱えた現在の状況が第3連だ。「the man who's on the 'phone(電話をかけてくれている男」は、この落ち目のバンドのマネージャーか、あるいはブッキングしてくれるというプロモーターか。いずれにしても仕事をくれる話をしてくれているのだ。だから「僕」は感謝する。ちなみに「'phone」の「'」(アポストロフィ)だが、telephoneの省略だと思われる。例えば「cartoon(漫画)」を「'toon」と書いたりするのと同じだ。

そんな状況なのでその「彼」に対して、「僕」はちょっと弱い立場にある。だから控えめに「もし時間があるようなら」もう一度問題点を説明したい、今まで言ってきたことを再び主張・説得したいと言うのだ、。それは「sum to lend(貸付け総額、援助総額)」のパーセンテージの件についてである。

ここがわかりにくいところなのだが、「10%じゃ今じゃ話にならない、30%、いや35%か」と彼が言っているところを見ると、出演料のバンドの取り分のことか。「父親が脳卒中になったと言ってやろう」というのは、明らかにその額をつり上げる作戦である。それが事実だとしても。そしてその後父親がどうなったのかはわからなかいくらい、縁の薄い存在となっていたとしても。

第4連では「僕」を見ている「君」に焦点が移る。その目は美しいけれど心の内側の奥底では、やはり「僕」を笑い者にしているだろ、と「僕」は思う。だって「僕」も「君」もそれぞれにチャンスを得たのに、「君」は「僕」の船に乗り込んでくれたんだから。つまり「君」は「僕」のバンド仲間らしいことがわかる。そしてその船は潮の流れを見失ってしまったのだから。「僕」の船に乗らなければ、あるいは違うう運命が待っていたかもしれないのだから。「僕」の自虐的で複雑な心境が表れている。

でも「僕」の中の音楽への情熱は失われていないし、「それをちゃんと演奏できる凄いヤツらはほんの一握りさ」という言葉に、自分たちがその一握りに入るんだという自負が感じ取れる。結局「僕」はロックンロールブームの嵐の中で翻弄され、落ちぶれた今、それでも基本の「音楽が好きだ」ということは変わっていないのだ。

そこで今度はサウンド面と合わせて見てみる。すると第1連と第2連での回想部分は静かなバラード風な歌なのに比べ、第3連、第4連は打って変わって感情をぶつけるような激しい曲調となる。

すると「僕」の怒りややるせなさが強調される。昔のことを思えば「貸付け総額」の交渉を“相手の時間を気にしながら”するなんてこと自体、プライドを傷つけられる行為なのだろう。「一晩中踊りに行きたくなったら声をかけてくれ」と言っているのも「時代におもねるならつき合ってやってもいいぜ」くらいの皮肉とも取れるかもしれない。

「lament(嘆き)」とは、人気を失ったバンドの、自分たちの今の境遇への嘆きであるとともに、「きちんとプレイできる一握りの凄いヤツら」の音楽が、流行の名の下に消費しつくされ、ダンス音楽に取って代わられてしまったことへの嘆き、そして怒りなのかもしれない。

2009年12月3日木曜日

「ネヴァー・レット・ゴー」キャメル

 原題:Never Let Go







僕らの破滅を予言する狂った伝道師たち
十分な場所は存在しないと言う
人類全てが存在するに十分な場所などないと
膨大な時間も流れ去り枯れ果ててしまうと
みんなそんなのは嘘っぱちだってわからないのかな

人は生きる意志を持って生まれたんだ
人はもうダメだとは言わないだろう
人は切り抜けどうにか挑戦し続けるだろう
人はもうダメだとは言わないのだ
決してあきらめたりしないのだ

僕には彼らが来世(天国)について話しているのが聞こえる
僕には彼らがハルマゲドンについて演説しているのが聞こえる
彼らは最後の時は遅れつつあると言う
でも僕には今でも誰かがこう言っているのが聞こえるんだ
こんなのは間違っていると

人は生きる意志を持って生まれたんだ
人はもうダメだとは言わないだろう
人は切り抜け
どうにか挑戦し続けるだろう
人はもうダメだとは言わないのだ
決してあきらめたりしないのだ


Crazy preachers of our doom
Telling us there is no room.
Not enough for all mankind
And the seas of time are running dry.
Don't they know it's a lie...

Man is born with the will to survive,
He'll not take no for an answer.
He will get by, somehow he'll try,
He won't take no, never let go

I hear them talk about Kingdom Come,
I hear them discuss Armageddon...
They say the hour is getting late,
But I can still hear someone say,
This is not the way...

Man is born with the will to survive,
He'll not take no for an answer.
He will get by, somehow he'll try,
He won't take no, never let go

【メモ】
英国を代表するロマン派プログレッシヴ・ロックバンド、キャメル(Camel)の代表曲の一つ。デビューアルバム「Camel(キャメル・ファースト・アルバム)」(右図)収録の曲。

ただし、先にお断りしておきたいのだが、わたしはこれを「 A Live Record(ライヴ・ファンタジア)」 の、メル・コリンズのサックスが入ったヴァージョンで聴き、そのアルバムに収録されていた歌詞を元に訳したので、収録アルバムも「A Live Record(ライヴ・ファンタジア)」にさせていただいた。

非常に叙情的な美しい曲。まさにキャメルらしい、親しみの持てるメロディーと甘いボーカル、ギターとキーボードの絶妙な絡み、タイトなリズム。

ビーター・バーデンスは、後任のキーボード奏者に比べればテクニック的には劣るけれど、曲のイメージを広げる音色の使い方や、ユニゾンやハーモニーによるギターとの絡みが絶妙で、ギターのアンディ・ラティマーと双頭バンドになれるだけの、不思議な魅力と存在感を持っていた。

この「ネヴァー・レット・ゴー」は、そうした互いの良さをインストゥルメンタル・パートでぶつけながら、歌われている歌詞を見ると、ロマンティックというよりは、力強い意志が込められたパワフルな内容なのであった。

「preacher」は「伝道師」だが、キリスト教プロテスタント教会の牧師を指す場合もある。冒頭からキリスト教のイメージが感じられる。膨大に思われる時間もやがて終わりがやって来て、人類は存在する場所を持てる者だけが生き残る。つまり「最後の審判」で、人々は選別にかけられるわけだ。

しかし話者である「僕」は、そういうことを説いている伝道師を「crazy(狂っている)」とし、「Don't they know it's a lie...(みんなはそんなの嘘っぱちだってわからないのかな)」と批判する立場を取っている。

なぜかと言えば「Man is born with the will to survive(人は生きる意志とともに生まれてきた)」からなのだ。

あぁ、なんてカッコイイ言葉であろう。こう言い切れてしまうところに若さも感じられるが、その素直さ、ストレートさにしびれてしまう。「人はNo(もうダメだ)とは言わないのだ」。 そして何とかして生きよう、生き続けようと、挑戦していくのだ。「(He will )never let go(人は決してあきらめたりしないのだ)」。力強く前向きな言葉が続く。

なお「let go」は「(人が)自制心を失う、手放す、見逃す」といった意味を持つ表現。ここでは体制の流れの中で自分の思いを手放すという意味として取った。そこでちょっと意訳気味だが「never let go」を「決してあきらめない」と訳した。

「Kingdom Come」は「来世、天国」、あるいは「この世の終わり、死」という意味で使われる。

「新約聖書ヨハネ黙示録」に寄れば、「Armageddon(ハルマゲドン、アルマゲドン)」という場所で善と悪の最終決戦が行われる(Armageddonその最終戦争自体を指すこともある)。その結果、神とイエスが降臨し、キリスト教の教えに忠実に生きてきた善人だけを救い出す。これが「最後の審判」だ。そこから「千年王国」が始まるのである(「千年王国」の後にサタンとの最終戦争を経て「最後の審判」が下されるという説もある)。

いずれにしても批判されているのは、「キリスト教」的考え方や「キリスト教」に縛られた生き方である。そして反発しているのは「僕」だけではない。「This is not the way...」は「the」が「唯一絶対の」というような意味を持つ限定的な言葉と取り、「これ(伝道師の説く未来)が唯一絶対なものじゃない」ということから、「決定済みなんかじゃない」→「間違っている」と意訳してある。

このようにこの曲は、内容的にはキリスト教的終末思想批判であるが、批判や非難をぶつける歌ではない。ここがとても大事なところだ。そうではなく、そうした考えに惑わされること無く、人は生きる希望を持って苦難に立ち向かい、「決してあきらめない」という、未来への希望とそれに向う強い意志を歌った歌なのだ。

だからと言って他の人々をアジテートするわけでもない。押し付けようとしているわけではない。「僕」の強い気持ちとして歌われているのである。

あるいはこうも言えるかもしれない。
「僕」はキリスト教自体は否定していない。否定しているのはその予言される終末的未来だ。「僕」は人類の力を信じ、終末がやってくることを避けることができるはずだと思っているのだ、と。このあたりのキリスト教に対する感覚は、日本人には分かりづらいところだけれど。

キャメルらしい素直で前向きな、聴く者に勇気を与えてくれる歌である。曲の良さだけでなく、歌詞の良さからも、キャメルの代表曲にふさわしい名曲だ。

2009年12月1日火曜日

「土曜日の本」キング・クリムゾン

原題:Book of Saturday







もし僕が君を欺くことさえできたらと思うよ
ゲームのことは忘れてね
君から離れようとするたびに
君は同じように笑うんだ

だって僕の車は決して道路に触れることはないし
僕らの交わしたウソの寄せ集めは
そのまま僕の背中に舞い戻って来て僕を押しつぶすから

僕らはカードをテーブルの上に置く
つまり互いの非難の言葉をね
そして僕は君の友だちのことは好きだと誓う
バンドの男たちのことさ

失ってしまった思い出
それは口論を伴って舞い戻ってくる
夜と昼の騒音の混乱の中で

申し分のない朝は
君の味方をしてまどろんでいる
僕は乗組員達を起こすつもりだよ
バナナボート旅行さ

ボートはリムジンのように応えてくれる
過ぎし日のおののき震える息づかいへ対し
サイレント映画のスクリーンを活気づかせるリムジンのように…

そこには苦しき者への救いがある
信じがたい光景の数々
僕はいつの日か君を信じようと思う
君の生と死そして夢を

だって絶望の騎兵隊が
その女性の髪の中で抵抗しているのだから
娘盛りに向う情熱に味方して…

君が僕の生活と時間を作り上げている
まるで陰鬱な土曜日についての書
そして僕は決心をせねばならない…


If I could only deceive you
Forgetting the game
Every time I try to leave you
You laugh just the same

'Cause my wheels never touch the road
And the jumble of lies we told
Just returns to my back to weigh me down. . .

We lay cards upon the table
The backs of our hands
And I swear I like your people
The boys in the band

Reminiscences gone astray
Coming back to enjoy the fray
In a tangle of night and daylight sounds. . .

All completeness in the morning
Asleep on your side
I'll be waking up the crewmen
Banana-boat ride

She responds like a limousine
Brought alive on the silent screen
To the shuddering breath of yesterday. . .

There's the succor of the needy
Incredible scenes
I'll believe you in the future
Your life and death dreams

As the cavalry of despair
Takes a stand in the lady's hair
For the fervour of making sweet sixteen. . .

You make my life and time
A book of bluesy Saturdays
And I have to choose. . .

【メモ】
デビューからの盟友ピート・シンフィールドと「アイランド(Island)」を最後に袂を分かち、バンド自体もロバート・フリップ以外のメンバーを一新して臨んだ、1970年代クリムゾンの後期のスタートを切る「太陽と戦慄(Larks' Tongues in Aspic)」からの一曲。

異様なテンションで聴く者を凍らせるようなアルバムタイトル曲パート1に続く、最初のボーカル曲である。

ピート・シンフィールドに代わって、このアルバムから詩を担当することになったのはリチャード・パーマー・ジェイムズ(Richard Palmer James)。ピートのようなイマジネイティヴな世界とは異なり、より現実的な内容、日常的な感情が描かれるようになる。その世界観の違いを感じさせる、新生クリムゾンの最初のボーカル曲だ。

登場するのは語り手である「僕」と、その恋人と思われる「君」。いきなり2人の複雑な関係を予感させる歌詞から曲は始まる。

「If I could...」というのは仮定法で、「もし…ができたらいいのに(実際はできないのだけれど)」という表現。「僕」は、2人の「ゲーム」のような恋愛関係を忘れ去り、「君」を欺いてでも君から離れることができればと願っている。 もちろん実際はできないことを「君」は知っているから、焦ることも怒ることも悲しむこともせず、いつも余裕の「笑い」を示すだけ。

それは「君」が、「僕」は決して出て行かないし、ゲームのように互いに交わしたウソの山に押しつぶされそうになっているのは「僕」だと知っているから。「wheels」は、「a set of wheels」で比喩的に車を意味するが、「wheels」だけでも同じ意味で使われる。出て行く時は車で出て行くということなのだ。「road」に「touch」しないとは、家の敷地から外へ出ないことを言っているのだろう。

互いに言いたいことを隠さずに言い合って、非難し合っても、結局最後には「僕」は「君のともだちのことは好きだ」と誓ってしまう。つまり「僕」は口論になっても負けてしまうのだ。バンドの男たちというのは、「君」の別の恋人たちなのかもしれない。 そして、もう過去のものとなった2人の思い出も、今となっては思い出せば口論の種にしかならない。

「on one's side」は「〜に味方して」という意味を持つことから、「朝の全ての完璧さは君に味方して眠りについているので」と付帯状況として捕らえ、訳を少しわかりやすく、朝文句なく幸せな気分で寝ていられるのは「君」だけ、と解釈した。

その頃「僕」は君を置いて、バナナボート旅行に繰り出そうと思う。「デェ〜ィ、オ〜」と歌い出す、明るい歌「バナナ・ボート・ソング(Banana Boat Song)」のヒットが1957年。そんな平和で明るくのどかなイメージがそこには込められているのかもしれない。

「She responds like a limousine」の「She」はバナナボートのことを指しているのだろう。船は女性として擬人的に扱われ、代名詞sheが使われることは良くある。バナナボートは「君」との間にこれまで交わされた口論や非難の応酬を忘れさせてくれるような、活き活きとした存在なのだ。「bring...alive」は「…を生き返らせる、活気づける」という意味。「limousine」を修飾していると取った。

それは「needy(貧しいもの、苦しんでいるもの)」、つまり「僕」 の救いとなる。君から離れた世界は信じがたい光景に満ちている。だから「僕」は「いつの日か」君を受け入れようと思うのだ。そんな日が来るだろうと思うのだ。それは、今は受け入れられないでいる「僕」の夢見る世界なのだ。

なぜ「いつの日か」なのかと言えば、「僕」に「絶望」をもたらす騎兵隊が、「君」がまさに美しい娘盛り(16歳と限らなくてもいいのだが)の魅力を増すために、その美しい髪の中で「僕」に常に抵抗しているからなのだ。ここはちょっと回りくどい表現だけれど、彼女の髪が象徴する女性としての溢れんばかりの魅力や美しさの前では、「僕」は何もできないということなのだろう。

こうして「僕」は「君」に全てを縛られていることを知っている。そしてそこから逃れられないことも、抵抗しても負けてしまうことも、1人旅立てればもっと活き活きした生活を送り、その時には「君」を受け入れられるようになるかもしれないことも知っている。

君はまるで「陰鬱な土曜日の書」なのだ。
ではタイトルにもなっている「土曜日の書」とは何か。

ここからは想像でしかないのでご了承願いたい。まず本アルバムが発表されたのは1973年。同じ年にエルトン・ジョン(Elton John)が「土曜の夜は僕の生きがい(Saturday Night's Alright for Fighting)」という大ヒット曲が生まれている。つまりその当時土曜日は、ハメを外す日、ウイークデイに縛られていた自分を解放する日というイメージが強かったと言える。

つまり土曜日になると「君」は「僕」を残し、友だちである「バンドの男」たちとハメを外し、日曜日の朝は幸せに満ち足りて眠っているのだ。もしかすると「僕」の隣ではないかもしれない。そんな陰鬱な土曜日、毎週繰り返される悲しみに満ちた日の記憶の集積。これが「陰鬱な土曜日の書」ではないか。苦悩の書である。

しかし最後の最後で「僕」は思う。「決断(選択)しなければならない…」と。 君をいつか受け入れられるようになるために、(「バナナボート」に乗り込んで)「君」から自由になる決断を。

しかし音楽的には、それまでの調子を崩すこと無く、淡々と終わる。だからこれもまた、わかってはいるけれど実行はできない、という心のつぶやきなのかもしれない。

身もふたもない言い方をしてしまえば、惚れちまったダメ男の煮え切らない歌とも言えるが、 非常に叙情的で美しい演奏と静かに歌い込むジョン・ウェットンのボーカルにより、「そうした感情や状況は、理屈ではわかっていても、現実には簡単に整理したり解決したりできない切なく苦しいものである」ことを感じさせる名曲となった。