2011年7月11日月曜日

「トゥ・ビー・オーヴァー」イエス

原題:To Be Over

  




 

「終焉」

われわれは穏やかな流れを舟で下っていく
橋の近くで終ることなく漂い続けながら
終焉、私たちは目にするだろう、終焉を

賭け事のような運がものをいうゲームや
あなたの夢を常にしまい込むドアなどに苦しむのは止めよう
熟考するんだ、時はあなたの恐れを癒すだろう、熟考するんだ
あなたの内側に解き放たれた思いのバランスを保つんだ

子どものような魂を持った夢見る人よ
一つの旅路、それはあらゆる光の中で求め見つける旅路
真実の小道を次々と開くんだ

次第に近づきながら
静かに進むんだ、ドアを押さえておけばすべての道が開かれるだろう
あなたは真実の小道を絶えずさまよい歩くだろう

結局あなたたちの魂はそれでも屈した状態かもしれない
しかし結局あなたの役割は愛される準備ができているということを
疑ってはならない

 
We go sailing down the calming streams
Drifting endlessly by the bridge
To be over, we will see, to be over

Do not suffer through the game of chance that plays
Always doors to lock away your dreams
Think it over, time will heal your fear, think it over
Balance the thoughts that release within you

Childlike soul dreamer
One journey, one to seek and see in every light
Do open true pathways away

Carrying closer
Go gently, holding doors will open every way
You wander true pathways away

After all your soul will still surrender
After all don't doubt your part
Be ready to be loved

【メモ】
Yes最大のアバンギャルド作であり、インストゥルメンタル方向へ針が振り切れた1枚「リレイヤー(Relayer)」(1974)。全3曲という大作は、Yesが未知の世界に猪突猛進していった時期の最後のアルバムと言えるかもしれない。ヘヴィー・シンフォとも言えるし、テクニカルシンフォとも言える。しかしその言葉のイメージする音ともまた違う、Yesにしか作り得なかった、壮大で斬新な傑作だ。

この曲はアルバムの最後に収められたもので、攻撃的で長大な1曲目、頭がクラクラするような難曲の2曲目に続いて、アルバム最後を平和な雰囲気で閉じるかのような静かな曲である。

その歌詞内容も、抽象的・感覚的で難解だと言われる当時のYesの曲の中では、比較的わかりやすく、曲調と同じようにアルバム全体の、ある種殺伐としたハードな世界から、平和で穏やかな世界へと聴く者を導いてくれるものとなっている。

主語は「we(わたしたち)」である。アルバム1曲目の大作「錯乱の扉(The Gate of Delirium)」は、『われわれは永遠に戦争しつづけなければならないのか?』という感情を歌ったもの(「イエス・ストーリー 形而上学の物語」ティム・モーズ著、シンコーミュージック、1998)と言われるが、この最終曲では、同じわれわれが本来到達すべき平和な世界、あるいはわれわれの到達を待っていてくれる至高の世界を物語ろうとしているかのようだ。

冒頭の1行は「sail down the river(舟で川を下る)」という表現に似て、「river(川)」よりイメージ的に小さい「stream(小川)」を下っていくという文章になっている。現在形であるから、ある意味われわれの在り方、あるいは人生を比喩的に述べていると言ってもいいかもしれない。「streams」と複数形なのは、われわれ一人一人が自分の「stream(小川)」を下っていくからなのかもしれない。

「stream」はやがて「bridge(橋)」のある場所へとたどり着き、「わたしたち」はそこで永遠に漂い続ける。そして「to be over(終ってしまうこと=終焉)を目にすることになるのだ。

ここまで読むと長い人生を歩み、やがて川が大海へと流れていくように、わたしたちは「stream(小川)」を流れ下って、ある橋のたもと「by the bridge」という終着点に至ると言っているように思える。「bridge」が単数形なので、その終着点には大きな橋が存在し、たどり着いた人々は、そのそばで漂い続けているとイメージしてみた。そこで目にする「to be over(終焉)」とは、人生で言えば「死」ということになるだろうか。

しかし確かに「It is over(もう終わりだ)」「The long, cold winter is over.(長くて寒い冬は終わった)」などのように「be over」は「終る」という意味で使われることが多いけれど、「over」には「越えて、「上方の、上級の、すぐれた」などの意味もある。作詞のジョン・アンダーソンが持つニューエイジ的な志向(もっと抽象的で感覚的だけど)からすれば、「to be over」は「超越すること、次の段階へ向うこと」というような意味そも含んで、終わりであるけれども始まりでもあるというニュアンスが感じられる。

実際次の連では「運に左右されるようなゲーム」や「あなたの夢を閉じ込めるドア」に苦しむのは止めようと「話者」は語りかける。物事をじっくり考えれば、時とともにあなたたちは癒されるのだと。それには考えたことによって自分の中に解き放たれた思考のバランスを取るのだと。そう、まるで一時的享楽や今の次元から上の次元へとステップアップさせようとしているかのように「話者」は説くのである。

第3連でも話者の示唆は続く。「こどものような魂を持った夢見る人」というのが、おそらく「わたしたち」の“本来あるべき姿・気づくべき姿”なのかもしれない。従って「dreamer」はマイナスイメージのある「夢想家」とはしなかった。むしろ前連にある「夢」をドアの向こうにしまい込むのをやめた人たちとして、肯定的に使われていると解釈した。

これまでの生き方の終わりは、新しい生き方の始まりでもある。夢を解放した人々は、「one journey(一つの旅路)」に出る。それはもう一度言い直されて「あらゆる光の中で求め見つけるもの(旅路)」である。それは真実の小道(pathway)、つまり本来あるべき生き方をしっかりと始める(open)ことから始まる。「away」は「遠くに」ではなく連続行動を示す「絶えず、どんどん、せっせと」というような意味でとらえた。

第4連からは、新しく始まる「one journey」へと話題がシフトする。夢をしまい込んでいた部屋のドアを開け放てたままでいられれば、すべての道が開かれる、というのは、第2連や第4連とも呼応する。そしてそうすることで本来歩むべき道を歩き回ることができるのだ。

最終連冒頭、結局(after all)自分を解放できた新しい旅路の果てに待っているのは、もしかすると依然として魂が何かに屈する状態であるかもしれないと、現実的な結末も示唆される。しかしまた同時に最後には(after all)「愛される用意がされている(ready to be loved)」ということを疑ってはならないとも言っている。

自分を解放し、新しい生き方を始め、その最後には愛に包まれた世界が待っていることを信じること。例え現実には何かに屈しなければならなくとも、そうした自分らしい生き方をすることが、最後には愛で迎えられることになるのだ、そう言っているように思える。

この「愛」とは神による大きく深い愛のようなものではないかと思う。つまりこの「after all」の時点こそが、本当の人生の終わり、つまり死であり、その時魂は愛に包まれて至福の時を迎えることができるのだ。

スティーヴ・ハウのバイオリン奏法によるギター、シタール、パトリック・モラーツの軽やかなエレクトリック・ピアノ、そしてジョン・アンダーソンの力強いボーカル。ゆったりとスタートし、疾走し始める中間部、荒々しいエレキギターにキラキラしたキーボードが絡む。

そうして突如入ってくるメロトロン。分厚いボーカルハーモニーやパトリック・モラーツのピッチベンドを活かしたしなやかなキーボードソロ。曲は次第に壮大さを増していき、最後の大団円に向って突き進んでいく。

後ろを振り返らず突き進んでいったYesの、一つの到達点、あるいは終焉(to be over)を示す曲であったのかもしれない。
  

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