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2013年5月23日木曜日

「プロクラメイション」ジェントル・ジャイアント

原題:Proclamation

The Power & The Glory(1974)収録






欲しいものや必要なものが全部は手に入らないとしても

あなた方が今手にしているもの全ては私の力によるものである、
世の中は変わるとも言えるし変わらないとも言える
そこで口を開き、主張できるのは誰だ?

今現在我々の置かれている状況というのは

幸とも不幸とも言い難いものだ
世の中は変わるとも言えるし変わらないとも言える
私なら口を開き、 主張をすることができる
万歳…万歳…万歳

団結こそが力ゆえ誰もが一つにならねばならない、

あなた方は自信に満ち私も希望にあふれるだろう
1人1人が国民だとは思っていないのだ
なぜなら皆は私の民でありそれは変わるはずのないことだからだ
世の中は変わるとも言えるし変わらないとも言える
私は口を開き、主張をしようと思う

万歳…万歳…万歳

大いなる力と栄光に満ちた前途に万歳
大いなる力と栄光に満ちた前途に万歳

大いなる力と栄光に満ちた前途に万歳
今日も明日も 

今現在我々の置かれている状況というのは

幸とも不幸とも言い難いものだ
世の中は変わるとも言えるし変わらないとも言える
私なら口を開き、 主張をすることができる
万歳…万歳…万歳

団結こそが力ゆえ誰もが一つにならねばならない、

あなた方は自信に満ち私も希望にあふれるだろう
1人1人が国民だとは思っていないのだ
なぜなら皆は私の民でありそれは変わるはずのないことだからだ
世の中は変わるとも言えるし変わらないとも言える
私は口を開き、主張をしようではないか

You may not have all you want or you need
all that you have has been due to my hand,
it can change, it can stay the same,
who can say, who can make their claim

The situation we are in at this time
neither a good one, nor is it so unblest
it can change, it can stay the same,
I can say, I can make my claim.
Hail ........ Hail ........ Hail

Unity's strength and all must be as one,
confidence in you hope will reflect in me
I think everyone not as my nation for
you are my people and there must be no change
It can change, it can stay the same
I will say, I will make my claim

Hail ........ Hail ........ Hail
Hail to Power and to Glory's way
Hail to Power and to Glory's way
Hail to Power and to Glory's way
Hail to Power and to Glory's way
Day by day.


The situation we are in at this time
neither a good one, nor is it so unblest
it can change, it can stay the same,
I can say, I can make my claim.

Unity's strength and all must be as one,
confidence in you hope will reflect in me
I think everyone not as my nation for
you are my people and there must be no change
It can change, it can stay the same
I will say, I will make my claim.



【メモ】 
タイトルの「The Power and the Glory」は実際の力(power)と、それが強制的・服従的なものではなく、名誉(fame)や賞賛(admiration)に基づいた高い評価=栄光(glory)であることの、両面を示した言葉と言える。単に強大な力・権力があるだけでなく、その行いや人物に対する高い評価も伴っているのである。

例えば聖書の「マルコによる福音書 13:26」に

Then they will see the Son of Man coming in clouds with great power and glory
(そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。)

とあるように、それはまさに神のように、賞賛され崇拝されるべき絶対権力者を表す言葉なのである。 

当然政治における権力者も、力だけでねじ伏せるような単なる圧政者・独裁者ではなく、このthe power and the gloryを有する者を目指す。為政者としての高い評価を得たいわけだ。平たく言えば“人気者”になることを望むのである。

このGentle Giantの第6作目となる「The Power and the Glory」は、そんな政治的権力者の夢と挫折を描いたコンセプトアルバムと言われる。ちなみにグレアム・グリーンにより「権力と栄光」(The Power and the Glory)という長編小説が1940年に出版されているが、Derek Shulmanによれば、その小説に着想を得たわけではないとのこと。

曲はどよめく歓声の上をハネルように軽やかなエレピに導かれ、エコーがかかったボーカルが歌い出す。「Proclamation」とは「宣言、声明」ということなので、権力の座につこうとしている者が、民衆を前に演説をしている風景が目に浮かぶ。

アルバム構成として同じメロディーが最終曲「Valedictory」(別れの言葉)でリプライズされる。この両曲はアルバムの最初と最後に配され、サウンド的にも歌詞的にも明/暗、テーマに沿って言えば希望・熱意/失意・落胆という相対する関係にあると言える。従ってこの「Proclamation」は、まだ自信に満ちた為政者(権力者)としての演説風に訳すことにした。

第一連冒頭、「私」の演説は「You may not have all you want or you need(あなたたち民衆が欲しいものや必要なものを、全部手に入れることはできないかもしれない)」という言葉から始まる。 ここは「not...all...」で部分否定(全てなわけではない/できない部分もあるかもしれない)と解釈した。「求めるものは全て手に入る」と言い切ってしまうより、はるかに誠実だし、民衆の心に訴えるには効果的な言い回しだ。

そしてすかさず2行目で「all that you have has been due to my hand(あなたたちが手にしているものは全て、私の手によるものなのだ。)」 と、未来のことはまだわからないにしても、今手にしているものは全て、私がこうして統治しているから手に入ったものなのだ、と説く。説得の技術を見る思いがする。こうして自分の力や成果を、民衆に印象づけるわけである。

「私」は再び未来のことに触れる。「it can change, it can stay the same(変わることもあり得るし、同じままということもあり得る)」と、やはり安易に未来の夢は約束しない。しかし「who can say, who can make their claim(いったい誰が口を開き、要求をすることができるだろうか?)」と民衆に問う。ここは?マークはないが、反語的疑問文と解釈した。隠された意味は、「いや誰も何も言えはしないだろう…この私を除いては」であろう。この部分の言い回しはこの後繰り返されるごとに、巧みに変化していく。

第二連、現在の状況を手放しで喜んでいるわけではない。「neither a good one, nor is it so unblest = it is neither a good one nor so unblest(幸福な世界でも不幸な世界でもない)」と「私」は言う。もちろんどんな社会にも幸せな人もいれば不幸な人もいる。現状を完全に肯定することは不幸な人を切り捨てることに繋がるのだ。

今の世の中はまだ不完全であり、「変わるとも言えるし変わらないとも言える」と予断を許さない状況であることを説いた上で、「I can say, I can make my claim(わたしなら声を上げられる、私なら主張できる)。」と続ける。「私」の経験や力を持ってすれば、何とか良い方向に変えていくことができる、「私」はその役に相応しい、そう言っているのである。何と典型的な政治家的スピーチであろうか。

ここで第一連では「who can say, who can make their claim」だったのが、「I can say, I can make my claim」と変わっている点が巧妙である。「私」を静かに主張し始めたのだ。でもまだ「can(できる)」と言っている。能力があると言っているのである。
 
第三連では「私」は民衆の団結(unity)を説く。「Unity's strength = Unity is strengh(団結は力なり)」、そして「all must be as one(全員が一つにならねばならぬ)」。

続く「confidence in you hope will reflect in me」は「confidence (will reflect) in you / hope will reflect in me」と、同じ形の文章が省略されて並んでいるものと考え「(団結して一つになれば)あなた方は自信に満ち、私は希望にあふれるだろう。」と解した。

続く二文はちょっと分かりづらい。前半の最後の「for」を「なぜなら…」と取って、二文目がその理由にあたると考えた。「1人1人が国民だとは思っていないのだ。なぜなら/あなた方は私の民であり、それは変わるはずのないことだからだ。」とは、国家という制度上に成り立っている為政者と民衆という図式を否定している言葉なのではないかと思う。
 
それはイデオロギーとして全体主義とか共産主義を押し進めようということではなく、個人的な信頼と賞賛の気持ちに基づいた、リーダーと集団との関係みたいなものを、ここでは述べているように思う。だから制度とか体制とかに関係なく、私たちの関係は「there must be no change(変わるはずが無い)」のである。国の為政者として制度に則って選ばれたのではなく(実際そうだとしても)、あなた方1人1人のリーダーとして今ここにいるのだ…というような感じである。

その信頼関係は、これからの社会が「It can change, it can stay the same」と未だわからないものであっても、「no change(変わることは無い)」のだという対比にもなっている。

そして第三連最終行は「I will say, I will make my claim(私は口を開き、私の主張をしよう)」で終る。ポイントは第二連と比べてcan(能力/可能性)からwill(未来/意志)に助動詞が変わったところだろう。「(やる/やらないは別にして)できる」と言っていたのが、明確に「しよう/したい」という意志を示す表現になっているのだ。

こうしてジワジワと「私」は自分の強い意志を段階的に表に出して来たのである。そうすることで少しずつ民衆は「私」の演説に説得させられていくのだ。そして「万歳」「大いなる力を栄光につつまれた前途(way)に万歳」と歓呼の声を上げるのである。

最終二連は、第二連と第三連の繰り返しだが、テンポが上がりアンサンブル的にもより軽やかになっている。そこにそこはかとない「私」の演説の白々しさが感じられるような気がする。

先に触れたようにこの曲は最終曲と対になっていて、希望・熱意/失意・落胆という関係が形作られている。ということは少なくともここでは、言葉巧みに民衆を騙し煽動し、甘い汁を吸おうとしていたわけではなく、権力と栄光を以て「私」は確かに良い為政者になろうとしていたのだとも考えられる。

ならばアップテンポ部分から感じられるのは、「白々しさ」と言うよりは「空虚さ」と言う方が正しいかもしれない。実際その方がリアリティーがあるかもしれない。政治的言説にみられる悪意の無い空虚さ。 そして直面する現実と挫折の予感。この詞はそうした雰囲気を実によく表現したものと言えるだろう。

ちなみに2010年にリード・ボーカルだったDerek Shulmanから、このアルバムに基づいたアニメーション(animated film)を制作中とのアナウンスがあったようだが、いかにもイギリスらしい話という感じがする。なぜかGenesisの「Invisible Touch」(1986)収録曲「Land of Confusion」のPVが浮かんでしまいました。 

2012年12月1日土曜日

「パンタグリュエルの誕生」ジェントル・ジャイアント

原題:Pantagruel's Nativity






How can I laugh or cry
When my mind is sorely torn?
Badebec had to die
Fair Pantagruel is born
Shall I weep, yes, for why?
Then laugh and show my scorn

Born with a strength untold
Foreseen to have great age
Set in Gargantuan mould,
Joyful laugh, yet quick to rage
Princely wisdom, habits bold;
Power, glory, lauded sage

Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him
Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him

Pantagruel born -- the earth was dry and burning
In Paradise dear Badebec prays for him

How can I laugh or cry
When my mind is sorely torn?
Badebec had to die;
Fair Pantagruel is born
Shall I weep, yes, for why?
Then laugh and show my scorn 

どうすれば笑うことがあるいは泣くことができるであろう
わたしの心はひどく引き裂かれているというのに?
わが妻バドベックは死なねばならなかった
美しきパンタグリュエルは生まれた
わたしは涙を流しても良いだろうか…もちろん、しかし何のために?
そしてその後あざけりの笑いを見せても良いだろうか

未知なる力を持って生まれ 
偉大なる人生を予見され
ガルガンチュア一族らしい容姿で
楽しそうに笑い、かと思うと突然怒り出す
大いなる知恵と大胆な性癖を持つ;
権力、名声、賞賛される賢人

パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている
パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている

パンタグリュエル生まれる - 大地は渇き燃えていた
天国ではバドベックが彼に祈りを捧げている

どうすれば笑うことがあるいは泣くことができるであろう
わたしの心は酷く引き裂かれているというのに?
わが妻バドベックは死なねばならなかった;
美しきパンタグリュエルは生まれた
わたしは涙を流しても良いだろうか…もちろん、しかし何のために?
そしてその後あざけりの笑いを見せても良いだろうか


【メモ】 
Gentle Giantの第2作「Aquiring the Taste」(1971)の冒頭曲である。登場するパンタグリュエルとは、フランス・ルネサンス期の人文主義者フランソワ・ラブレー(François Rabelais)が著した物語『ガルガンチュワ物語』『パンタグリュエル物語』に登場するキャラクターで、ガルガンチュワ(ガルガンチュア、ガルガンテュアとも)と共に、巨人の一族とされる。

Gentle Giantのサイトにある説明によると、この歌詞の話者はパンタグリュエルの父であるガルガンチュア(Gargantua)とのこと。バドベック(Badebec)はパンダグリュエルの母である。パンダグリュエルが生まれた時、その巨体ゆえに母バデベックは死んでしまった。ガルガンチュアは妻の死と息子の誕生という二つの出来事を前に、感情を引き裂かれることになる。

ガルガンチュアの物語は、政治的風刺とユーモアに彩られた荒唐無稽な長編物語とのことだが、この曲はパンダグリュエル出生時のガルガンチュアの悲劇的状況に焦点を当てた、シリアスでアンビバレントな心情を歌ったものだと言える。

第1連冒頭、「How can I laugh or cry / When my mind is sorely torn?」は、まさにガルガンチュアの嘆きの言葉である。「わたしの心がこれほど酷く引き裂かれている時に、笑うことができるだろうか?あるいは泣くことができるだろうか?」という反語表現である。 

続く二行で補われているように、「笑うことができるか?(いや、できない…なぜならわが妻は死んでしまったのだから)泣くことができるか?(いや、できない…なぜなら今息子が誕生したところなのだから)」ということなのだ。

第1連最後の2行も、ガルガンチュアの心情的混乱が表現されている。ならば泣いて笑おうか?しかし何のために泣くのだ?そして笑いは喜びの笑いではなく、このような運命にさらされた自分へのさげすみの笑いになってしまうだろう、と。ちなみにfor whyは通常は一語forwhyと記し、for what reasonの意味。

第2連はパンダグリュエルの描写である。パンタグリュエルは非常に快活で聡明であることがわかる。「Joyful laugh, yet quick to rage」という描写も気性や性格が荒々しいというよりは、感情が豊かで魅力的な例として挙げられていると思われる。

第3連ではパンタグリュエルと母バドベックが対比される。ガルファンチュアは王として隣国との戦いに明け暮れていたことから、地上は荒れ果てているのだろうか、渇き燃え上がっている地上には生まれたばかりのパンタグリュエルがいる。片や天国ではバドベックがパンタグリュエルのために祈りを捧げている。このコーラス部分を挿むことで、冒頭第1連の繰り返しとなる最終連で「わたし(ガルガンチュア)」の心が、天と地に引き裂かれたかのような重みを持つと言えるかもしれない。

焦点が定まらないようなシンセの音から始まるこの曲。ところが静かに入るケリー・ミネアのボーカルは聖歌隊の少年のように繊細で美しい。するとそれをかき消すようにエレキギターのブレイク。そして再びボーカルが歌い出すとコロコロとピッコロのようなキーボードとブラスが被さる。静と動、聖と俗、繊細さと大胆さ、高貴さと野卑さ。このアンビバレンス。
 
そして歌詞においても、このようなガルガンチュアの複雑な心情を取り上げることは、Gentle Giantが目指していた

「It is our goal to expand the frontiers of contemporary popular music at the risk of being unpopular.(現代のポピュラーミュージックの境界を、ポピュラーミュージックとは呼べなくなる危険を冒しつつ押し広げることが、われわれの目指すところなのだ。)」(アルバムジャケットより)

という姿勢にピッタリであったのかもしれない。この曲は歌詞・楽曲共に、そうした自らが目指していたサウンドのお披露目、あるいはリスナーや既存のポピュラー音楽への宣戦布告のようなものであったとも言えそうである。アルバム・トップを飾るにふさわしい名曲。
 
ちなみに東宝と米国ベネディクト・プロが製作し、1966年(昭和41年)に封切り公開された日米合作特撮映画『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の海外版タイトルは、「Wars of the Gargantuas」だとか。巨人=ガルガンチュアという連想は、日本人には分かりにくいけれど、欧米では一般的なものなのであろう。

もちろんガルガンチュア/パンタグリュエル=快活で聡明な巨人=ジェントル・ジャイアントである。

 
Gustave DoréによるPantagruel

 

2010年4月4日日曜日

「アン・インメイツ・ララバイ」ジェントル・ジャイアント

原題:An Inmates Lullaby

(邦題は「イ ン・ア・グラス・ハウス」)収録






入院患者の子守唄

このきれいで心地よい クッション付きの小さな部屋で
昼下がりには横になりながら
僕はここにいる変わった友だちみんなと話ができるんだ
僕は横になるように言われてるんだけどそれは…なぜかはよくわからないんだ
   
庭園に咲く花を食べてみたんだそこには美味しいチューリップがあるから
そして間に合わなくてズボンを濡らしてしまっても気にしないんだ
他に行く場所もなかったし見つけることもできなかったし
  
とっても大きな白い電球をじっと見上げる
その電球は毎日灯っていて夜の間も灯り続けているんだ
僕の間抜けな友だちの声が聞こえる
看護婦さんたちはいつも部屋にカギをかけずっと外で待っているんだ
 
今朝怪我をしてしまったのでお医者さんが僕に注意をし自分の部屋に行かされ僕に悪い子だと言ったんだ
 
誰かが僕が彼はたぶん長い間ここにいることになると思ってるって言っている どうして他の皆は僕の頭がおかしいっって思うんだろう
誰かが僕が彼はたぶん長い間ここにいることになると思ってるって言っている そして僕の頭がおかしいって 
 
このきれいで心地よい小さなクッション付きの部屋で
昼下がりには横になりながら
僕は ここにいる変わった友だちみんなと話ができるんだ
僕は横になるように言われてるんだけどそれは… なぜかはよくわからないんだ
  
  
Lying down here in the afternoon
In my pretty cosy little cushioned room
I can talk to all my funny friends in here
I was told to rest why ... I am not quite clear
 
Eating flowers growing in the garden
where there are tasty tulips and I don't care
If I wet my trousers there was no time
I had nowhere else to go nowhere else I could find.

Staring up at the great big white light.
That shines everyday and shines all through the night
Hearing voices of the silly friends of mine
Always lock the door nurses waiting outside all the time.

Hurt myself this morning, Doctor gave me warning sent me
to my room and told me that I'm bad.

I heard someone saying I think he'll be staying maybe for a
long time, Why does everybody else think that I'm mad
I heard someone saying I think he'll be staying maybe for a
long time and that I'm mad.

Lying down here in the afternoon
In my pretty cosy little cushioned room
I can talk to all my funny friends in here
I was told to rest why ... I am not quite clear.

 
【メモ】
イギリスの超技巧派バンドジェントル・ジャイアントが1973年に発表した5枚目のアルバム「In A Glass House」からの一曲。このアルバムもコンセプトアルバムと言えるもので、Wikipediaには次のように書かれている。

「A complex and determined concept album - named for the aphorism that "people who live in glass houses shouldn't throw stones" - it was the band's most directly psychological effort to date.」

「複雑で明確なコンセプトアルバム - ガラスの家に住む者は石を投げるべきではない<弱みを持つ者は人に文句を言ってはいけない>という格言に由来する - この作品はバンドが現在に至るまで、一番直接的に精神面をテーマとして扱った作品である」

6つの収録曲が精神的弱さを持った一人の人物の精神的・心理的変遷を綴ったものとなっていて、この「An Inmates Lullaby」は2曲目、1曲目の「Runaway(逃亡者)」に続いて、精神的なダメージを負った段階の曲だと言える。

そうしたコンセプトの設定自体も奥の深いものであるが、その中でもこの曲の凄さは際立っているように思える。

タイトルからもわかるように「僕」は入院している。その理由は「僕にはよくわからない」。自分の現状を認識することもままならない状態。「美味しいチューリップ」を食べてしまったり、おもらし(wet my trousers)しても気にしないでいたり、天井の電球がずっと点いていることが気になっていたりというあたりから、「僕」が入院しているのは精神科の隔離病棟であることが想像される。

「cushioned room」というのも「クッションの置かれた部屋」というよりは「壁がクッションのように当たっても怪我をしない部屋」ということではないかと思う。つまり「僕」は時に激しいパニックを起こすのではないだろうか。 だから午後の一時を除いては、一人部屋に残され、その部屋にはカギがかけられ看護婦は常に待機しているのだ。
  
僕はまわりの友だちを「funny(間抜け、ばか)」だと思い、でも周りの皆が僕の頭がおかしいと思っていることは納得できない。「hurt myself(怪我をする)」とか「bad(悪い)」とかいった感覚的・抽象的な言葉はあるが、何がいけなくてなぜ注意されたのかは理解できていないかのようだ。

ちなみに「Hurt myself」であるが、「hurt oneself」で「怪我をする」という慣用句である。しかしここでは文字通り「自分自身を傷つけてしまった」 と解することもできそうである。つまり自傷行為をしてしまったと。だから「悪い子」だと言われたのかもしれない。

文法的におそらく故意に乱していると思われる歌詞。付帯状況を示すような分詞構文でありながら、それだけで終わっている部分(「Eating.../Staring...」など)は、「僕」のうつろな気分や物事に集中できずに視点や関心がどんどん変わってしまう様子を感じさせる。

特に
「I heard someone saying I think he'll be staying maybe for a long time, Why does everybody else think that I'm mad」

とその繰り返しに見える次の行の 
「I heard someone saying I think he'll be staying maybe for a long time and that I'm mad」

は、「僕」が前の行の言葉を繰り返そうとして、中間部分(赤字部分)が思考からごっそり抜け落ち、最後の「that I'm mad」に飛んでしまったかのようで刺激的であるし、それがまた結果的に「I heard someone saying that I'm mad.(誰かが僕の頭がおかしいって言っているのが聴こえる)」とも読めてしまうというというのも実に巧みだ(ただし、実際の歌では全文が繰り返されている)。

また句読点に縛られないで、頭に浮かんだままに文にしているとすれば「I heard someone saying I think he'll be staying maybe for a long time,」の部分は、「誰かが何か言っているのが聴こえる たぶんあいつは長い間ここにいることになるだろうな」と意味を取ることもできそうである。

つぶやくような声がさらにイコライジングされ、意識が半覚醒状態にあるような夢幻的な曲。しかし歌詞は恐ろしいほどに閉ざされた「僕」の状況の描写である。「僕は混乱している」とか「僕は気が触れてしまいそうだ」といった客観的・理性的な意識や視点をまだ持ち合わせた上での叫びとは違う、生々しくも悲しく異様な世界がそこには描かれているのだ。
 
「僕は頭がおかしいと思われ不当に隔離されている」といった強い反発や自己主張もない、淡々とした静かな精神的に壊れた世界。

サウンドに関心が行きがちなジェントル・ジャイアンだが、その歌詞もまた奥が深いことを感じさせる一曲。 

ちなみにこの歌詞を訳しながらダニエル・キーツの「アルジャーノンに花束を」を思い出してしまいました。

2009年5月3日日曜日

「オン・リフレクション」ジェントル・ジャイアント

原題:On Reflection

■「Free Hand」収録







オン・リクレクション/もう一度考えてみて

私のやり方で私はあなたを利用したの?あなたは私が本当にあなたを侮辱したんだと思うの? さあもう一度よく考えてみて もうたいしたことじゃないけど:
どうしてあなたは私があなたに、他の人以上に私を必要にさせたなんて言えるの?
もう終わってしまったのに、誰が今更そんなことを言えるっていうの:
それは私の行為、私の欲求、だめになってしまうことはきちんと説明したはずよ
異なった生き方をすれば、決して公平っていうわけにはいかないの
あなたが私を見た時、同じようにして、あなたはいつも
私がいつもいつもも同じように

私はあなたを思い出そうとしてると思えたの?:
今でもあなたは留まっている
自分のやり方に縛られて
機会をあらため
合図に目をこらして
どうやって:
あなたは私の中にあなたにとっての理想像を見ることができたの?
さあ:
もう一度考えてみて どうして私があなたのために生き方を変えるべきだったっていうの?
あたり一帯に
私はあなたに好感は持っているけれど、でも結局あなたにウソはつかないって叫ぶわ

それはまさに一つの経験だと思うの
私には才能があるってさんざん聞かされてテーブルにカードを置いたのよ
まだ何か他の方法があるなんて理解もせずに
新しく頼れるものを見つけて そしてやり直して だって私は長くいなくなるべきだったのだから、さあもう一度考えて これはまさに一つの経験なのよ
まもなく痛みも終わる 同時に痛みの意味もなくなる
私はいつもいつも、あなたのことを思い出せるよう努力するわ
振り返ってみて これはあなたのゲームじゃないの もちろん名目上も違うわ
私は良いことだけ憶えておくわ あなたはどうやって私たちが同じ道を歩んでいた年月を忘れることが出来るのかしら:
物事は私の人生を変え、私の人生からあなたの居場所を取り去り、私たちの時間は離れていった:
あたり一帯に


In my way did I use you, do you think I really abused you
On reflection now it doesn't matter:

How can you say I made you need me more than anyone else

Who can say it right now it's finished over:

It's my act, it's my calling, I explained exactly the falling
Different ways of life can never even:
Be the same when you saw me, could you always take me the

same way as I came and went I tried to remember you:

Still you stay

Tied in your way

Changing times

Watching the signs

How:

Could you see in me what you thought about all you want me to be

Now:

On reflection why should have I changed my ways for you

All around all around

Cry my sympathy's with you but I never lied to you all in all


it seems it's just an experience:
Placed my cards on the table told of everything I was able,

Understanding still not anything different:

Find another to lean on, start again for I should have long

gone, on reflection now it's just an experience.

Soon the pain will have ended, together never intended, as I

come and go I'll try to remember you.

Look back it's not your game, together just in name.

I'll remember the good things how can you forget all the years
that we shared in our way:
Things were changing my life, taking your place in my life and

our time drifting away:

All around all around



【解説】
音楽的には、クラシカルな旋律を、ボーカルと楽器が複雑に絡み合いながら絶妙なハーモニーを作り出すという、一見シンプルだけれど非常に高度な作曲能力と演奏能力、そしてボーカルテクニックを要する、極めて高度な曲である。そういう意味ではジェントル・ジャイアント的な美しさと凄さを体験できる曲だと言える。

歌詞の内容を見ると、何年もの間、共に歩んできた相手と別れることを決心した「わたし」が、それを相手に伝えようとする歌である。かなり現実的な内容で、夫婦、あるいは恋人が長年一緒に暮らした後の別れを思わせる、感情や関係のズレが語られる。

疑問文のかたちを取っているが文末に「?」がないとか、おそらく主語は省略されているんだろうという部分は、補って訳した。

さて、この歌詞からは「あなた」と「私」としか二人の関係はわからないので、話者を男性とするか女性とするかで、和訳の言葉遣いも想像される状況も変わってくる。

しかし何となく、この言い分は女性が言いそうな感じがしたのだ。

実際、「侮辱」されたと思いやすいのはプライドにこだわる男性の方が可能性が高い気がする。自分の生き方を相手に押し付けようとするのも男性っぽい。あるいは自分の理想の女性になって欲しいというのも男性的な感じがする。

そういった指摘や非難が含まれているところから、「話者」は女性として訳した。熟年離婚を言い渡すのは女性からが多いと言われるではないですか。そんな年齢での話ではないのだろうけれど、それに似た冷静さと断固とした決意を感じるのだ。一時的な感情で相手を非難しているというのではなく、数年に渡る付き合いの中で生じてしまったお互いの溝が、これ以上もうどうしようもないところまで来てしまったことを、淡々と伝えようとしている感じがする。

曲順としては次に「Free Hand」が続く。「Free Hand」はいかにも男性が言いそうな泣き言めいた内容なのも良い対比になっている。また「Free Hand」の歌詞にも、この「On Reflection」に出てくる「人生(life)」や「ゲーム(game)」と言った言葉が使われている。

実は別れることになった両者の、それぞれの立場から自己主張を曲として並べたんじゃないかと思えるほどだ。少なくとも「On Reflection」の歌詞を聴いた上て、続く「Free Hand」の歌詞を見ると、「Free Hand」単体で見るより、内容に深みを感じることができる。より大人の男女の別れの物語が浮かび上がってくるようだ。

長年連れ添ったために次第に相手を尊重することを忘れていったり、共に歩んできたはずの人生が少しずつ離れ始めてしまうなんて、とても大人の世界だ。ジェントル・ジャイアントは歌詞も深いなぁと実感。

2009年3月2日月曜日

「フリー・ハンド」ジェントル・ジャイアント

原題:Free Hand

■「
Free Hand」収録








 いったい誰が 僕の両手が自由だと今信じてくれるだろう
 両手が自由だと
 
 僕はこんなことが自分に起こるなんて思っていなかった

 自分に起こるなんて
 僕の人生は僕のものだから 君を残して去るよ

 君を残して去るよ
 いったいどうして 僕の気持ちが変わったなんて思ったんだい?
 僕の気持ちが変わったなんて

 君と別れて走り去ることは 難しいことじゃなかった
 君と別れて
 君が全てをやり終えた後、僕に何ができたって言うんだ?
 僕に何が
 君がやっているゲームで僕の役をやるのは誰かな
 君がやっているゲームで
 もう君が言うことなんて誰も聞いてはくれないさ
 君が言うこと全てね

 今僕の縛られていた両手は自由になった
 縛られていたことから
 今僕はそこに広がる未来に期待をしている
 そして君といると 気持ちは落ち込み 過去を振替ってばかり
 さあ 僕の頭はスッキリだ、なぜ振り返る必要がある?

 関係が終わった時、君は後悔したのかな?
 後悔したのかな?
 あるいは君は本当にもう終わったと思っているのかい?
 もう終わったと

 僕の人生は僕のものだから、君を残して去るよ
 君を残して去るよ  
 いったいどうして僕の気持ちが変わったなんて思ったんだい?

 僕の気持ちが変わったなんて

 僕の気持ちが変わったなんて

 僕の気持ちが変わったなんて


 Who would believe me now that my hands are free,
 that my hands are free
 I never thought it would ever come to me,
 ever come to me
 Now that my life's my own, I leave you behind,
 leaving you behind
 What ever made you think that I'd change my mind,
 that I'd change my mind

 It wasn't hard to run, break away from you,
 break away from you,
 After all you'd done, what was I to do,
 what was I to do
 Who's gonna take my place in the games you play,
 in the games you play
 Nobody's listening now to the things you say,
 all the things you say

 Now my hands are free from the ties, from the ties
 Now I look forward to the future, where it lies
 And with you, feeling low, looking black
 Here, now my head is clear, why should I look back

 When it was over did you have regrets,
 did you have regrets
 Or did you really think it was over yet,
 it was over yet
 Now that my life's my own I leave you behind,
 leaving you behind
 What ever made you think that I'd change my mind,
 change my mind
 Change my mind
 Change my mind


【解説】
イギリスを代表するプログレッシヴ・ロックバンドGentle Giantの1975年発表した「Free Hand」より、タイトル曲「Free Hand」だ。一聴すると跳ねるようなポップなリズムが耳に残るが、実は変拍子、リズムチェンジビシバシ、超絶アンサンブルが展開される。



歌詞を見る限りは恋愛の歌であろう。「君」と別れることなんか簡単だった「僕」はやがて関係が深くなり「君」と別れられなくなる。ところが「僕」の気持ちが変わったと思った「君」は「僕」に別れを告げる。そんな状況だろうか。

「僕」は「縛られていた両手が自由になった」と言い、未来を見つめると強がりを言いながら、「こんなこと起こるなんて信じられない」とか「君」はゲームをしていたんだねとか、未練たっぷりな言葉を投げ続け、最後には「別れて後悔しなかったの?」そして「本当に終わったと思ってるの?」と問う。

繊細なイントロ部分と、叩き付けるようなボーカル部分と、不思議な雰囲気な中間部のインスト部分とが、現実を受け止め切れずに揺れ動いているような、「僕」の複雑な心境を現していると言えるかも。目まぐるしく変わるアンサンブルは、一つの雰囲気に浸っている間を与えない。

極めてGentle Giant的に、揺れ動く「僕」の気持ちを表現した名曲。
とにかくアンサンブルが凄過ぎです。